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日の出前

「水仙」同様、救いの無い物語が淡々と綴られる。


「水仙」は、芸術にまつわる心模様を中心に描かれていて、その点における太宰さんの考えが、ほんのり見え隠れするのだが、「日の出前」は、登場人物に、太宰さんの過去の遍歴や、太宰さんが出くわしたのかもしれない誰かの特徴が当て込まれていて、その点で、「水仙」よりも、太宰さんカラーを強く感じる。


家族の足を引っ張り、とことんダメになっていく男に対し、遂には絶望してしまう家族。最後は、その男が家族によって殺められたらしき気配を漂わせて終わるわけだが、そんな家族の行動を描くことは、太宰さんにとってとても自虐的なはずであり、これまでの作品は、それでも資金援助を止めなかったり、もう関わらないと断絶こそすれ、そんな直接殺めるようなことはなかったわけだから、その点、この作品はその自虐度が強いと思う。


日本が戦争に突入しようとする、そんな折に、太宰さんがこういう作品を書いたことは、若かりし日々とはまた違った意味で、生死を強く意識するようになっていたからかもしれないが、どうだろう。


これにて、新潮文庫版「きりぎりす」終了。次は新潮文庫版「ろまん燈籠」!!

2010年3月31日 19:47 | コメント (0) | トラックバック

水仙

これも、芸術にとらわれた女の悲しさが冷酷に描かれていて、とても厳しい。


全部説明してしまうのは野暮なので書かないが、ざざーっと説明すると、「周りに褒めそやされて自らを天才と信じた女が、やがて誰の言う事も聞き入れなくなり、家を飛び出して芸術家を気取るのだが、いつしか耳そのものが聞こえなくなり、自らの能力にも絶望し、孤独に生きていくしかなくなる。」という話。なんとも救いの無い話ではないか。


太宰さんお決まりの、自分や自分の考えを主張してみせるスタイルは、やや影を潜め、いたってノーマルな悲劇小説という印象である。

2010年3月31日 15:44 | コメント (1) | トラックバック

風の便り

40前の売れない作家(木戸一郎)と、50過ぎの高名な小説家(井原退蔵)による、往復書簡だけで構成されている作品。


手紙で構成されていると言えば、「虚構の春」を思い起こすが、あれは送られて来た手紙だけで構成され、本人が相手に送ったであろう、メタラクタラな手紙は読者の想像にお任せする形になっている。


「風の便り」は、互いの手紙に互いの主張が込められ、ぶつかることで、太宰さんの中の矛盾する二つの考えが、同時に描かれるところが妙味と言える。木戸さんは現実を嘆き、井原先生は正論を言う。小説家として、どっちも間違った事は言ってないところがミソだ。


互いが手紙の中でだんだん熱くなっていき、往復するごとに喧嘩腰になっていく様子が、真剣なだけにバカらしくて、面白い。


この作品は、どうにかして「Do!太宰」本編に盛り込めないかと、すでに検討に入っているので、興味のある方は要チェック。

2010年3月31日 13:43 | コメント (0) | トラックバック

千代女

またもや女性が主人公。しかし、これには他の作品とはまた違った悲壮感があり、そこが印象深い。


幼い頃、才能に恵まれていたはずの主人公は、しかしその才能を軽んじ、周りの大人の勧めも疎ましく、無理矢理乗せられて、いやいや言葉を書き綴っていた。だけど年を重ね、やがて自らの意志でなにかを書こうとした時、そこにかつての魅力は無く、失った輝きをどうすることもできず、どうしたら小説が上手になるのだろうかと苦悶するようになる。最後の「私は、いまに気が狂うのかもしれません。」という女の言葉が、なんとも言えぬ寒気を呼ぶ。


なにも恐れず、というかなにも考えずに書いた、過去の自分の脚本を読み返した時に、これを今書けと言われてもきっと書けないと思わせる、一瞬の異様な輝きが見られることがある。そんな時、自分は成長したのだろうか、ただ体裁を整える技術を身につけただけでたいしてなにも変わってない、どころか、あの頃ほどの輝きはもうないのではないかと、不安になったりする。


そんな事をふと考えた。


女の子が、いやいや書かされてましたのよ、と過去を滑稽に振り返るだけの物語かと思いきや、終盤一気に今現在の苦しみへ着地する事で、ぐっと切実さが生まれる。その構成が、よいなあと思いました。

2010年3月30日 13:42 | コメント (1) | トラックバック

佐渡

佐渡に小旅行へ向かう太宰さんの様子が滑稽に綴られる紀行文。


後に登場する「みみずく通信」の後日談になっている。軽快に読める。


ほんのりと淋しく、やんわりと残念な感じで描かれてしまった佐渡の人たちの事が思いやられる。それでも記念碑とかあったりするんだろうかね。だって「佐渡」ってタイトルだもんね。


2010年3月29日 13:41 | コメント (1) | トラックバック

きりぎりす

これまた女性が主人公の物語。物語というか、女の人が自分の旦那に延々語りかける作りになっていて、心の中で書いた手紙のようである。芸術を見失い、見栄にとらわれていく夫に、三行半を突きつける妻の言葉が延々綴られる。ある意味では、「駈け込み訴え」と似ていると思う。


太宰さんが、売れて商業的になっていく太宰さん自身を戒めるために書いたのではないかと、解説に書かれてある。


なかなかに耳の痛い話である。


かつて、今よりももっとなにかにつけて余裕がなかった頃の私は、ほんの少しのことで自分のステータスが上がった気がして、結果、端から見たらとても見苦しい状態になっていたのではないかと思いあたることがある。今もたいそうな差は無いけども。


気をつけます。と、普通に思っちゃったよ太宰さん。


自分への戒め、或いは自虐を、作品として世間にさらすのだ。もはやわかりきったことだが、なかなかの神経の持ち主ではないか。それを女に語らせる形で表現する狡猾さも込みで、たいしたもんだと思います、太宰さん。


「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」


という最後の一文が、苦しく、美しい。

2010年3月28日 13:40 | コメント (0) | トラックバック

善蔵を思う

詐欺らしき、偽物の百姓が主人公宅を訪れ、庭に薔薇を植えてはいかがと売り込んでくる。その偽百姓と主人公のやり取りにおける、主人公のほんの少しのサディスティックさが面白いのだが、結果、主人公は薔薇を買ってしまう。その結果が、買うべきではないと考える読み手からすると、じれったく、その事もまた面白い。


で、そういうエピソードを踏まえ、実際にはその後の、新聞社主催のパーティーに出席することにしてしまった主人公の、悶々とした胸の内の描写が、この作品の中心となっている。その悶々具合が情けない。


さらに、散々故郷に錦を飾るべく、あれやこれやと考え倒すのに、肝心のパーティーでは酩酊し、汚行をさらしてしまうというエピソードへつながり、最後にもう一度、騙されて買った薔薇の話に着地する。意外にも上等の薔薇だったというのだ。


そのことが、買うべきではないと思っていた読み手に、ささやかな満足感を与えてくれる。うまいことつなげたもんだ。その構成がいい。


最後の、「私は心の王者だと、一瞬思った。」の “ 一瞬 ” という言葉に、ささやかな侘しさがあり、太宰さんがその言葉を選んだ事が、とりわけ印象に残った。

2010年3月27日 13:34 | コメント (1) | トラックバック

「Do!太宰」優先予約スターーーーーート!

こんちは。多忙です。おそらく効率悪くソワソワしているからだと思います。いくつになってもダメなものはダメです。


ところで、「Do!太宰」、稽古が始まりました!あわせて、


「Do!太宰」優先予約が、本日0時よりスタートしております!!


心より心よりお待ち申し上げます。稽古はまだ二日しか行っていませんが、これまでとは全く違った空気の稽古場と、稽古内容に、体と脳みそが痺れています。

2010年3月26日 00:00 | コメント (6) | トラックバック

10年分の思いを込めて

お待たせいたしましたあああああああああああああああああ!!!


ブルドッキングヘッドロック10周年記念Tシャツ特設ページに、10周年記念Tシャツのデザインがアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップ!!!されました。


見て見て見て。優先予約もスタートしますんで、どっちも要チェケね!チェケね!チェケチェケね!

2010年3月25日 12:10 | コメント (0) | トラックバック

春だ!Tシャツを!さあ!

3月24日まで、この記事を最新にしておきます。


ブルドッキングヘッドロック10周年記念Tシャツ特設ページが、特設されました。


Tシャツも力作なら、ページ自体も力作。Tシャツをクリックどうぞ。それぞれのコメントを読めば、あなたもブルTマスターだ!


さらに、クリック後、Tシャツの写真にカーソルをあわせると、背面デザインが、パと、パ、て感じで出てきます。まれに、背面デザインが出てこない不具合が生じる可能性があります。その際はお手数ですが、一度特設ページを閉じ、再度特設ページをご覧ください。お手数ですがごめんなさい、複雑ななにかが、たまにこんがらがるみたいなんです。でも、楽しいですよ。


ぜひご覧ください!

2010年3月24日 23:59 | コメント (5) | トラックバック

他者の、或いは自分の作品について多くを語れぬ自分を、「唖の鳥=鷗」に例え、内容のほとんどは卑下してみたり、あとちょっとは励ましてみたりする、という随筆的作品。新潮文庫版「きりぎりす」は、女性と随筆のようだ。

今作における太宰さんの考えには共感する部分が多い。とくに編集者とのやりとりには、自戒せねばと思うものがある。できることなら多くを語らず、ただ、なにかを書き、なにかを演じていられればいいのだが。時として、作品以外の部分で饒舌になってしまい、その中で、かすかな、しかしとんでもなく残念な自分を垂れ流してしまったのではないかと、後悔することは数限りない。


必要なことだけを、すーっと滑らかに心地よく喋られたらいいのだけどね。いろいろ飾り立てて、結果、とても下品になることがあります。


太宰さん本人も、自身のそれをどうかと思っているような書き方をしつつ、その実、ちゃんと擁護もしていて、なかなかどうしてうまいこと語りますなぁ、と思ってしまう。

2010年3月20日 04:36 | コメント (0) | トラックバック

皮膚と心

ようやく気がついたのだが、この新潮文庫版「きりぎりす」には、意図的に、女性が主人公の作品が多く収録されているのではないか。


巻末の解説を覗き見て確認すると、どうやらそうであるようだ。「皮膚と心」も、女性が主人公の物語であった。


太宰さんには申し訳ないが、そろそろ「Do!太宰」に向けてなにをやるのか、どの作品に主に焦点を当てるのか、絞っていかねばならず、そうなった時に今回の「Do!太宰」のコピーは “男たちのブルドッキングヘッドロック ”であるので、必然的に女性が主人公の作品が中心になることは、無いような気がしてきている。


じゃなんで今これを読んでいるのか?ふと疑問がわく瞬間があるが、いや、それでもやはり考えることはあるだろう。粘り強く読むのである。もう、絶対に稽古始めまでに全ての太宰作品を読み終えることは不可能だろう。


女性の皮膚に突如現れる赤い発疹の描写は、個人的には、だぁいぶ前に読んだ筒井康隆の作品辺りを思い出し、とても気持ち悪い。その発疹を発端に、女性があれやこれやと思いを巡らすのだが、ウジウジしていやがるその様子は、結局のとこ太宰さんだ。つまり、なにかと気持ち悪い作品ということだ。


この作品を発表した時期の前後、太宰さんは女性視点の語り口の作品をうんと作るようになる。女性の体を借りることで、表現しやすいなにかがあるのだと思うのだが、どうですか太宰さん。僕はちょっとあります。

2010年3月20日 03:33 | コメント (0) | トラックバック

おしゃれ童子

こどもの頃から、自分はおしゃれだったということについて、言葉をあれこれ費やして語る、随筆的作品。


さすが太宰 “ 自意識の塊 ” 治さん。子どもの頃からいろいろ考えていらっしゃる。


だったら私のことも話そうか。小、中、高と、私はまったく洋服に興味が無かった。母親が買ってくる洋服を、文句も言わず着ていたはずだ。そんな私が、一回だけ、自分の意志で洋服を選んだ記憶がある。選んだだけで、買ったのは母親だったと思うので、自分で買った初めての洋服ってわけではない。その買い物が、中学のことだったか、高校に上がってからのことだったか、そこの記憶すら定かではない。場所が「フジ」という名の、ちょっとだけ大きいスーパーだったことだけを覚えている。その時買ったのは・・・、


・黒の、シャリッとした素材の、スタンドカラーの、シャツ。
・焦げ茶で、全身がペーズリー柄の、ボタンダウンシャツ。


の2点だった。香港の金持ちにでもなりたかったのか。わからない。子どもの頃の自分がわからない。わからないが、今でも時おり、「これは良いぞ!」と思って購入した服を、他人から「なにそれ?」と言われる私だ。どうやら私は、センスがアレなのではないか。今、思い出して、ほんのり思う。


その後、高校3年の時だったか、やはり母親と一緒に、松山市内のジーンズショップへ行ったことがある。母親にジーンズを見立ててもらったのだ。初めての、“本気”のジーンズだったのではないか。母親が、白いTシャツに蒼いジーンズ、というスタイルに悲しい幻想を抱いていたことを覚えている。


・LeeのGジャン
・LeeのGパン


今風に言えばセットアップ。上下揃いのデニムスタイル。Leeというところに母の本気が伺える。母は私を、萩原流行にしたかったのか。はたまた田中義剛か。わからない。わからないが、どう転んでも当時の吉田栄作にならないことは、ジーンズのことをなにもわかっていない私でも確信できた。


しかしその後、そのデニムの上下は、大学へ進学した私の、唯一と言っていい外出着として大活躍する。ずっと着続けて、ある時、ゼミの同期の女性がそのGジャンにいたずらに袖を通し、「なんかジメッとしてるぅ。」と言い放ったことがあった。洋服にまつわる初めての殺意だったような気がする。


大学に入り一人暮らしを始めるものの、1年の頃はやはり洋服の買い方がよくわからず、友人に選んでもらっていた私だった。2年の頃になると、空前の古着ブームなんかが巻き起こり(ヴィンテージなんて言葉が新鮮に飛び交った)、その中で、少しずつ、私は自分の意志で洋服を買うようになっていった。ずいぶん遅い萌芽である。


ところで、幼い頃の記憶をたぐってみても、洋服に関して、父親の姿が出てこない。どうやら父も、母にあてがわれた服を黙って着ていたくちなのではないか。定かではないが。近頃、ゴルフをする父のために、ウェアを贈ってみたことがある。浅黒い肌の父には、明るい色の服がよく似合うのと、タイミングを逃した還暦祝いをを兼ねて、赤いゴルフウェアを贈ってみたが、着ている所は当然見たことがない。私はゴルフをしない。父はGパンを穿かない。


つい一昨日、自宅の玄関が靴で溢れかえっていて、足の踏み場もなくなっていることに気がついた。どうりで家に入りにくいはずなのである。数えてみたら30足を越えていた。一人の男が一つの賃貸住宅に所有する数としては、ちょっと多すぎるかもしれない。全て自分の意志で選び、自分の稼ぎで買った靴だ。中学時代の私には想像もつかないだろう。とんでもないことになってしまったものだ。


今日はいい天気だった。そんな時は、蒼いGジャンを颯爽と羽織っててみたく思う。萩原流行のようだとしても、もはや気にならない。

2010年3月20日 02:25 | コメント (1) | トラックバック

畜犬談

憎悪するほど嫌いだった犬に、かかわり合いにならないようにいろいろ工夫してたら、逆になつかれてしまって腹がたつけど、最後にはちょっと犬に肩入れしてしまちゃったよオレ、ということをあれこれ言葉を駆使して語る、 “ いい感じ ” の随筆的作品。


そのバカバカしさはたしかに愉快だが、他の作品にある、読み手が心の中でそっとツッコムような感じはなく、意識的に愉快にしようとしている気がして、逆に愉快がれないので、あまり好きではない。


あと、なんだかちょっと最後のやり口は、そこそこ人の心があれば誰だってグッと来かねない風になっていて、ずるいね、と思うが、なんせちょっとグッと来ちゃった。


犬を飼いたくなる話ということだ。

2010年3月20日 01:23 | コメント (1) | トラックバック

黄金風景

こうもたくさん読んでいると、短編も短編、うんと短いのに出くわすだけで、太宰さんナイス。と思う。


短編です。


昔、太宰さんがいじめていた女中が、大人になり、夫づてに太宰さんに会いたいと言ってくる。しかし、今の自分のダメさ加減を思うと、会えたもんじゃないと思い、太宰さんはとっとと逃げ出してしまう。ところが、太宰さんがこっそり海辺で見かけたその女中さんは、夫と娘に向かって、太宰さんのことを一つも悪く言わないどころか、誇らしげに讃えてみせるのだった。


太宰さん、完敗。果ては、興奮して男泣き。なんともはや、ダメな御人である。

2010年3月19日 23:50 | コメント (1) | トラックバック

姥捨

水上温泉にて、最初の妻(実際には内縁の妻か)、小山初代さんと服毒心中をしようとした時のことが、描かれている。


「道化の華」、「狂言の神」、に続いて、三度目の自殺モノだ。自殺モノってジャンルもどうかと思うが。


初代さんをモデルにしているのだろう、かず枝の、鈍感を装っているのか、はたまた太宰さんが隣にいた女性をそうとらえたのか、今から死ぬようには見えない、なんとも明るい振る舞いが印象的だ。そして、実際に服毒し、しかし失敗して生き返り、生きてはいるものの気を失ったままのかず枝が、無意識のまま、「胸が、いたいよう!」と叫び上げる、その無防備な姿にこそ真実があるように思われ、悲しい。


帰京後、二人は別れる。なんともやりきれない話だが、夫は小説に狂い、妻は不貞を働いた。なかなかどうして、どうにもなりそうもない二人ではないか。


森の中、気を失い、泥まみれで喚き散らす死に損ないの女を見て、男は別れを決意する。その際の、決意の言葉もまた印象的だ。


“ 単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純さを笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生き方がないものだ。”


アンタが言うか。という向きもあろうが、そうですな、とも思うのである。男がこういう考えの元になにかを言うと、女の人は別の単純さでもってブーブー言う。


いろいろ言葉を費やして、自分に言い訳したり言い聞かせたりしているところは、男ならではの女々しさだ。その辺は、太宰さん、健在だ。

2010年3月19日 23:23 | コメント (1) | トラックバック

燈籠

新潮文庫版「新樹の言葉」を読み終え、次は新潮文庫版「きりぎりす」。


「燈籠」もまた、女性が主人公の物語。


” 女々しくてシリーズ ” を立ち上げた私が、女性描写が得意な作家さんとされている太宰さんをモチーフに選んだのも、なにかの縁なのかもしれない。と、偉そうなことを書いてみる。


冒頭の、 “ 言えば言うほど、人は私を信じて呉れません。” は、またもや太宰さん自身の心情を表現しているようだ。


薬物中毒、幾度も繰り返す自殺、誰かれかまわず金を求める日々、欲しがるあまり常識を逸脱してしまった芥川賞事件、精神病院への入院、太宰さんに起きてしまった様々な出来事が、世間の太宰さんへの眼差しを、変えがたいものへと凍らせてしまったのだろう。


そのことへの不満が、嘆きが、この作品には込められている。


私は悪いことをした、でも、それでも私は悪くない。その女性主人公の主張は、そのまま、太宰さんの主張になっている。ま、悪いことしてんだけどね、実際。


しかし、女性を主人公にすることによって、太宰さんの主張は、女性ならではの性質ようなものに変換され、物語を味わい深いものにするための、いいスパイスのようになっている。


最後に、家族とともに、明るい電灯の下で食事をすることが幸せだと書いたところに、世間への負け惜しみと、そんなささやかさに気づけるようになった喜びが、ないまぜになって表現されているように思う。

2010年3月19日 22:50 | コメント (1) | トラックバック

誰も知らぬ

何度目かの、女性が主人公の物語。四十一歳の安井夫人が淡々と語る。


“ 可笑しなことがございました。” で始まる安井夫人の語りは、芹川さんという友人女性との交流について滑らかに続く。途中、芹川さんにお付き合いしている男性がいることがわかって、動揺したりする。


で、芹川さんと青年の交際に反対していたらしき、芹川さんのお兄さんが、ある夜、安井さんの家を訪ねてきて、妹を知らないかと聞く。芹川さんたちが、いなくなったのだそうで。ところが、まあお兄さんはだいたい目星がついているとかで、荷物引っさげて安井さんの元を去る。


そして終盤。あまりにも唐突に、グンッと話しが動く。突如安井さん、立ち去ったお兄さんを追って、なりふりかまわず走り出す。実は、お兄さんと、“ 死ぬまで離れまい ” と覚悟していたのだという。お兄さんを見失い、人気の無い往来で “ お兄さん!” と叫んでみる。


急だな、おい。


しかし、この唐突な展開が気持ちいい。その秘めていた思いは、唐突だが、ありうると思わせる真実味を持っている。


友人芹川さんが日々大人になっていく、その姿を目の当たりにして、若かりし日の安井夫人の中で、なにかがどうにかなったとしても、おかしくはあるまいというものだ。


たしかに可笑しな出来事ではあるが、誰もがなにかを秘めているのだから、どこにでも転がっている当たり前の話とも言えるだろう。

2010年3月19日 22:00 | コメント (1) | トラックバック

老ハイデルベルヒ

若かりし日の、伊豆の三島での太宰さんの思い出が綴られる。


やはりタイトルがどういう意味なのか気になる。ので、ちょちょっとネット検索した所、ドイツの小説、アルト・ハイデルベルクになぞらえたんじゃないかという、見ず知らずの方のベストアンサーが見つかった。タイトルの意味を知りたがっている人は、私だけではなかったということだ。横から盗み聞くように、フムフムと納得。


青春を鮮やかに過ごした彼の地へ、時を経て戻ってみると、全ては過去のことになっていて、何もかもが変ってしまっている。街も人も。そしてきっと自分自身も。その現実を突きつけられ、それでもやっぱり今を生きていかなければならない、ね。みたいな。


実際に太宰さんが家族を連れ、久しぶりに三島に立ち寄ったのだろう時に受けた落胆が、執筆の発端なのではないか。


老は、ドイツ語でアルト。ハイデルベルクとは、そう言う地名。だそうです。


ベストアンサーの方の教えてくれる、本家「アルト・ハイデルベルク」のあらすじは、なんだか美しく(王子様とか出てくるからかね)、太宰さんの方のそれは、清々しくも、少々不格好だ。あえてそうなるように書いた節もあるし、どうしたってそうなっちゃう節もある。


私も、例えば今さら、あの青春の広島へ戻り、広島大学とか訪れてみた所で、私が在籍していた学部はもうないそうだし、私が油絵の具で汚した壁も、他の若い学生のそれで上塗りされて、見つけることも出来ないだろう。


そうでしょうとも。その場所は、今そこにいる者のモノです。後でアレコレ言ってもしかたがない。今をしっかりアレするだけだ。なんだ、アレって。

2010年3月19日 21:49 | コメント (1) | トラックバック

兄たち

太宰さんはよく、家族や、実家にいた女中さんたちのことを書く。この作品では、太宰さんの兄たちをモデルにしていると思われるが、よく登場する長兄的な人物ではなく、珍しく三男にフォーカスがあてられている。


どこまでが事実に基づいているかはわからないが、感傷的な語り口には、どこかしら事実が含まれているのだろうと思わせる。しかし、私がよくうんざりする、太宰さん本人の事実ではない分、どうも主張が客観的で淡々としていて、柔らかく、読む側も受け取りやすい。


この作品を読むと、虚実ないまぜのものとはいえ、太宰さんが10年振りに故郷へ帰った時のエピソードを綴った、「帰去来」辺りのことがより深く思い出される。

2010年3月18日 20:42 | コメント (2) | トラックバック

俗天使

ミケランジェロの「最後の審判」の絵が凄くよくてまいっちゃったことについて、そして自分にはどんな聖母がいようか、ということについて、延々書かれている。で、後半。


「もう、種が無くなった。あとは、捏造するばかりである。何も、もう、思い出が無いのである。語ろうとすれば、捏造するより他はない。だんだん、みじめになって来る。ひとつ、手紙でも書いて見よう。」


とあり、少女からの手紙が綴られ始める。それは、新潮文庫版「走れメロス」に収録されている、「女生徒」の主人公、女生徒からの手紙なのである。


とても陳腐な例えで恐縮だが、例えば、帰ってきたウルトラマンに、ウルトラマンとウルトラセブンが登場した時のような、ちょっとしたスペシャル感が、私をうきうきさせるのだ。


最後、「だらだらと書いてみたが、あまり面白くなかったかも知れない。でも、いまのところ、せいぜいこんなところが、私の貧しいマリヤかも知れない。実在かどうかは、言うまでもない。作者は、いま、理由もなく不機嫌である」とあって、くくられる。


ちょっと恥ずかしいことしちゃった感があったのかもしれない。私もよく、以前の作品の登場人物を、執筆中の作品に登場させることがある。多くは名前だけだったりするが。それって、ちょっと自己満足だったりする。ちょいと恥ずかしい行為だが、そういう楽しみは許していただきたい所だ。気づける方はちょっと得した気分を味わっていただきたい。


実は、ずいぶん前から、「Do!太宰」に、以前の作品の登場人物を登場させる予定でいた。というか、いる。出てくる。ちょっとアイディアがかぶってしまったよ、太宰さん。

2010年3月18日 20:38 | コメント (1) | トラックバック

春の盗賊

書き出しからしてどうかしている。筆者は、これは経験談だといい、期待するなというのだ。


で、散々いろいろ御託を述べるのである。これはもう読んでもらうしかないのだが、まあもうほんと、知ったことかの気分になる、余計な御託だ。


あげく、これはフィクションである。と言い出す。経験談だつったのに。「私は昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。全部、嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ。ひとりで、くすくす笑っちゃった。」と。「ちゃった。」ってなんだ、かわいくねえぞバカ。と思う。


んでまた今度は、泥棒という災厄にも予兆があるとか言い出して、気をつけろ、どういう予兆か教えてやるからオレを信じろ、と言い出す。(こういう、本気とは思えない無駄なアドバイスを延々してみせるところなどは、当劇団の篠原トオル辺りを思い出す。)読み手をバカにしているとしか思えぬ予兆の数々を、真剣極まる文体でもって、散々述べるのである。


さらには、寝れないので小説の筋を考えようとしたとか、ウダウダウダウダ、またもや脇に逸れる。早よ泥棒のこと話せやボケ!と思う。(そういう私のイラッとした心情は、当劇団の篠原トオルに対して度々向けられるものに似ている。)


で、ようやく泥棒が入ってきた時の話になる。主人公は、泥棒と対面してしまう。泥棒と火鉢を囲んで話をする。やがて金を出せ、ダメだ、の問答になる。泥棒を説得しようと、のべつまくなし、まくしたてる。このくだりにいたっては、文学というか、コントだ。(要は、当劇団のメルマガにおける、篠原トオルの新連載のようなものだ。)


最後、奥さんにたしなめられて、激ギレする。(篠原トオルが最近激ギレしたとこは見ていない。10年くらい前はあったかもしれない。逆に私が激ギレして、ヤツにスリッパを投げつけてやったことはある。)


なんせそんな案配。


完全に、おちょくっているのではないか。最後のキレた心境が実際の心境なのだとしたら、せっかく懸命に泥棒とやり取りしたのに嫁さんにたしなめられてキレて、嫁さんどころか、ついでにあらゆる方向に向かって、やたらめったら当たり散らしている状態だ。まあもう、たちが悪い。悪いのだが、


ここまで読んだ作品の中でもとりわけ滑稽で、とりわけ面白いと思った私だ。


これ、面白いですよ、みなさん。


ちなみにこの前、当劇団の岡山誠が打合せの帰り道、私に向かって言い出した。「そう言えばこの間、バイシさん(篠原トオルのあだ名)に言われましたよ。近々プラモを作る会をやろうぜって。」


プラモって・・・という引っかかりもあろう。あろうが、プラモを作りたい話は、確かに以前、篠原たちとして盛り上がったことがあるので、そこは責めないでいただきたい。


しかし、なんせ私は打合せの余熱もあったので、ややぼんやりしたトーンで答えるしかなかった。「ああ、そうかぁ。稽古忙しくなる前にねぇ・・・。」すると続けて岡山は言った。「ええ。喜安んちでやろうぜって。」


そんなの私は全く聞いていないのである。おちょくっている節があるのである。

2010年3月17日 20:32 | コメント (2) | トラックバック

美少女

太宰さんが甲府に住んでいた頃の話。


嫁さんに連れられて湯治場へ行き、混浴風呂に入ったら、そこに目を見張るような素晴らしい体の、一粒の真珠のような少女が浸かっていて、目を奪われちゃった。で、真夏になって、暑くて耐えられんつって散髪屋に行ったら、そこにその美しい少女がいて、あ、ここの女の子だったのね、と嬉しくなり、思わず少女に微笑みかけちゃった。そしたら無視されて、でもやっぱり嬉しかった。


そういう話。


“ コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房。” コーヒー茶碗という響きがおかしい。コーヒー茶碗にねじ込まれる、女性の乳房を想像する。あ、ごめんなさい。


風呂入って、目の前に16〜18歳くらいの女の人がいて、その子がなかなかに瑞々しく、あげく、どこも隠さず手をぶらぶらさせてその辺を歩かれたら、まあ男は恋をするかもしれないね。と思うよ、太宰さん。

2010年3月16日 21:29 | コメント (1) | トラックバック

八十八夜

主人公、笠井一、二度目の登場。一度目は、今、手元になにもヒントが無いなかで記憶をたぐりよせるに・・・あれだろ?「狂言の神」だろ?笠井一が就職試験に落ちちゃって死んじゃって残念だみたいなことから書き始めたけど、実際は笠井一って私のことだ、って太宰さんが言い出して、最後は首つり自殺をしようとして失敗してしまう話。首つりが楽だって聞いたのに、ちっとも楽じゃなかったってやつ。


あえて確かめる前に掲載する。自分の脳内書棚を整理するのに、こういう負荷は必要だ。間違っていれば、私が恥をかけばいいのだ。


今回、文中の中で語り手は、なぜか笠井一のことを敬称で、笠井さん笠井さんと呼ぶ。それが、太宰さんのちょっとだけひいた感じ、「狂言の神」の頃とは幾分違う心理状態を、表しているように想像させる。かつては自分を心底卑下し、卑下した分だけ優しくしてもらいたがっているように思われて逆に優しくなんかするもんかと私に思わせたが、この頃には、自分のことをほんとに笑って話せるような、そんな良い意味での知性を駆使できる余裕があったのではないだろうか。なんせ「笠井さん」という響きが、いい。


「そうして、笠井さんは、旅に出た。」


この一文が、どうにもダメな、きっとダメな旅になるに違いない空気を持っていて、そういう一文が書ける所が素晴らしい。これはその一文に持っていく、それまでの運びによる功績だ。なぁにが、旅に出ただバカ。とつっこませるのだ読み手に。


いくつかわからないが、きっといい大人であるはずの笠井さん、「めちゃなことをしたい。思いきって、めちゃなことを、やってみたい。」とは、なんだ。しっかりしろと言いたくなるではないか。


汽車の中で、ふと聞こえてきた外国人の名前がなんだったのか、全く思い出せない件は、その情けなさを端的に表していて、読者にこれは悲しい喜劇だとよくわからせてくれる。


やがて、旅はこちらの予想通りダメな結末へ向かい、しかもなんともたわいない、まあしかし男にしてみれば確かにわからないでもない恥をかき、敗残兵よろしく帰京しようとするのだが、そこに前向きなニュアンスをグイッとねじ込んでくる辺り、やはり心境の変化を見てとれる。


強くなったというべきか。

2010年3月16日 20:26 | コメント (2) | トラックバック

火の鳥

未完の長編。


女性の主人公の場合、そこに太宰さん個人のいろいろの思いはあれど、「葉桜と魔笛」同様、あまり太宰さん自身を意識せず読めて、どうやら僕は楽なようである。


女性を取り巻く何人かの人物がいて、それぞれが女性と関わり、言葉を交わし、物語が進む。非常にまっとうな作りの小説。


社会復帰を目指し、三坂峠にこもって書き上げようとした作品だ。こういう作品を書くことで、社会に対応できる作家になろうとしたのかと思うと、なるほど、なんとも皮肉めいたものを感じる。男と仕事と芸術。どうやら私の、太宰さんを読む上でのひっかかりは、この辺に絞られてきている。


一対一の会話形式の場面が多く、それがそれまでの作品にはあまり見受けられないように思われ、新鮮な読み応え。

2010年3月16日 16:25 | コメント (0) | トラックバック

愛と美について

ああ、こういう作り方もあるのかと、物語に奥行きを、襞を作る方法について、気づかされる。


兄弟姉らが、リレー方式で物語を紡いでいく。語り口にそれぞれの個性があり、同じ題材を扱っていても、語る兄妹によって内容が柔らかく変化していく。


そして見えてくるのは、兄弟姉らそれぞれの背景である。兄妹姉が捏造した物語は、いつしか兄弟姉の物語に移っていくかのように見える。


最後の、落語のようなオチのつけ方も、読後感を楽にさせてくれて、アリなのではないか。

2010年3月15日 16:18 | コメント (1) | トラックバック

さらにショプ情報

ブルのショップブログにて、今年のTシャツ企画の予告記事が更新されております。稽古場日誌に続き、伊藤聡子が爪の先に火を灯すかのごとく小出し小出しに、Tシャツにまつわる情報を流してくれています。


今年はブルドッキングヘッドロック結成10周年。10周年を記念する、ご機嫌なTシャツを鋭意製作中です。実は私の作業はすでに終わっており、今は、寺井、山口の二人が、PC上でデザインのデータをアレしたり、業者さんとお金をアレしたり、非常に現実的な部分をチクチクやってくれています。


それもこれもTシャツを着たいからさ!Love T!


今年は、これ一作しかTシャツは作りません。10周年も今年だけ。今を逃す手は無い、ということではないでしょうか。詳しい情報は間もなく!

2010年3月14日 11:10 | コメント (3) | トラックバック

甦るあの女の姿

太宰からいったん離れまして。


ちょっと前からですが、「女々しくて」の台本がブルオンラインショップにて販売されております。


2009年4月。新宿はゴールデン街劇場で、1ステージ40人という、秘密クラブの如き限られたお客様にしかご覧いただけなかった、まぼろしのような作品です。実は、お褒めの言葉をいただいた数は他の作品を凌ぎ、じゃあなんであんな狭いとこでやっちゃたんだろうとも思いますが、あの狭い空間だからこそ生まれた作品だとも思います。DVDに出来ない諸々の理由がございまして、DVDにはなりません。そんな「女々しくて」を、せめて台本で再現。興味のある方はぜひ、オンラインショップへ。


以上、告知でございました。

2010年3月14日 11:01 | コメント (0) | トラックバック

花燭

何年か前の、三鷹市芸術文化センターの企画、「太宰治作品をモチーフとした演劇」で、東京タンバリンさんがモチーフに選んだのが「花燭」(その時の公演タイトルは「華燭」)だったように記憶しているが、どうだったか、今、外でこれを書いているので調べる術が無く、なのにそのことについて書きたいもんだから申し訳ない。


そんな薄らボンヤリとした記憶があるものだから、読んでる間中、これをどう演劇にしたのかについて考えてしまった。とくに演劇にすることが困難な種類の作品とは思わない。まっとうに演劇らしい演劇にも出来よう気がする。端々に、コメディのような、間抜けの描写も見受けられ、情けなくも優しい読後感もあり、設計図も立てやすいのではないか。


だから、私が考えたことは、これをどうすれば演劇に出来るんだ?という問題ではなく、どうすれば演劇的になるのだ?ということだ。


演劇にする以上、演劇の土俵に上げて、もう、完膚なきまでに転がし倒して、まるでそもそもが演劇の台本だったかのようななにかを作り上げたいと思うわけだが、この「花燭」は、物語もしゃんとあって、はなからある程度演劇的でもあって、これをあえて演劇で演劇的に見せる面白味に昇華させるのは、案外難しいのではないかと想像するのだ。


いや、東京タンバリンのことだ、そこは丹念に演劇へと昇華させたに違いない。要は、自分たちがそれをやることを考えると、考えることがいろいろあって、しかもやっかいで、それはそれは大変だろうなぁと、きゅっと肛門の縮まる思いがしたということだ。肛門て言葉久しぶりに書いたな。どうでもいい。


演劇だからできること。そんなことを最近よく考えます。

2010年3月14日 03:29 | コメント (0) | トラックバック

新樹の言葉

あのね、今さらですけど多いんですよ、「新樹の言葉」に収録されてる作品て。


だからこの先ちょっと駆け足になると思うんですけど、これ、皆さんに読んでいただくことより自分が書き残しておくことを主な目的としている所があるので、ご容赦願いたい。


文庫のタイトルにもなっている「新樹の言葉」。主人公が大歓喜する様が、他の作品と一線を画していて、読んでいてほっとする。


感傷的で感動的な、きっと太宰さん本人であろう主人公。二十世紀旗手の頃とは違った、おおいなる熱を強く感じた。「東京八景」の、出兵を見送る時の太宰さんの、熱い、興奮気味の様子と近い。


さ、さ、次。

2010年3月14日 02:26 | コメント (1) | トラックバック

秋風記

そろそろ「Do!太宰」のことも話そうかと。


今回の作品、私が台本を書く以外にも、出演者のみんなによって台本にひと手間を加えてもらおうと考えている。


当然だが、太宰治のことを描こうとしている。特定の人物を、それもいくつもの文学作品を残した先達を描くには、私一人の所感をもって臨むのでは心許ない。あらゆる角度、あらゆる温度、あらゆる眼差しで太宰治を見つめ、より立体的でより客観的な太宰治像を舞台にでっち上げたい。そのためには、なるべく多くの、この度ならまず真っ先に出演者の協力が無くてはなるまいよ、と考える。


で、今回は稽古場でいろいろといつもとは違う稽古を行い、そうすることで私からは出てこないなにかを抽出しまくろうと思っているのだが、手始めに、出演者一人一人に、太宰治さんの作品を一つずつ選んでいただき、それを作品のボリュームの長短に関わらず、必ず3分以内にまとめて、みんなの前で発表してもらうという、私がしろと言われたらきっと目の前が真っ白になるだろうことを、やることにした。


一人一作品、出演者が19人だから全19作品。一つの発表が3分で合計ほぼ1時間。たった1時間で太宰治の作品が19作品知れるとは!太宰を読んだことがない人には、なんともありがたい稽古ではないか!私が何ヶ月もかけて本を読んでいる努力は一体なんなんだおい!


そこからなにが生まれるかは、あてにしていない。いや、実を言うとあてにしている(どっちだ!)。正確には、なにも生まれなくてもいいというおおらかさをもって臨むということか。まずは出演者も太宰を読むこと、少しでも多くを知ることが大事なのではないか。発表を見れば、おおよそ誰が太宰派で、誰がアンチ太宰派かを知れるかもしれない。それだけでも、面白い稽古場になりそうじゃないかと思うのだ。


今後も「Do!太宰」の稽古場のことは、いつもよりも子細に、この場で伝えていこうと思っている。この場も、作品の一端を担うことになる。読んでおいて損は無いと思われます。


で、「秋風記」だ。


出演者に一斉に、一人一作品発表してもらいます、と号令を発して、発するやいなや返ってきた返信が、今回初参加、2009年のブルドッキングヘッドロックワークショップに参加してくださって、この度の公演の出演と相成った、菅原功人くんからの “「秋風記」にします。” のひと言だった。


その時点で私はほっとんど太宰さんのことを知らず、知ってる作品と言えば(しかもタイトルだけで内容は全く)、「人間失格」と「斜陽」くらいのものだったので、「秋風記」という作品が真っ先に届いたことに、いささか面食らったものだ。「あるんだ、そんな作品。探さなきゃ・・・。」モワーンとした私だ。今作の、私にまつわる太宰治の最初が、実は「秋風記」だったということだ。


菅原君が「秋風記」を読んだ経験があるかどうかは知らない。それについては稽古場で本人に聞く。しかし、号令を発してすぐだ。少なくともなにかを知っている、これならなにかを発表できる、というなにかしらの計算が無ければ、あんなに早く返信はよこせないのではないか。いったい「秋風記」とは?!


私はいち早く「秋風記」を読みたく思ったが、前の方から順番に読もおぅっと、という私ならではのかたくなさと呑気さのせいで、結局辿り着くのに一ヶ月以上もかかってしまった。あやうく稽古始めに間に合わないかと思ったが、なんとかなった。


渋い、冷たくせつなく、まああいかわらず若干のナルシシズムは感じるものの、とくに物語も終焉間際、ふっと速度の上がる場面は印象深く、なかなかにピリ辛い作品だった。「ダス・ゲマイネ」を思い出すと言えばわかりやすいか、どっちも読んでる人には。全体に薄い墨汁のような情景を思わせる。


そして思う。菅原君がこれを選んだことを。そこを考えることは、菅原君を想像することだ。「菅原君」と「秋風記」。菅原君は、僕が知らない菅原君を多分に潜ませているようだ、あたりまえだけど初参加なんだから。ここにすでに、今作を形成するかもしれない、ヒントのようななにか(曖昧!)が含まれているのではないかと思われる。


すでに多くの出演者が発表する作品を選んでいる。中には、すでに読み終えてここに発表した作品もある。選ぶ作品に、その出演者のひととなりが見える。「へえ、篠原これを、へえ。」とか、「岡山君はそうだよ、これだよな。」とか。私の中で、19人分のなにかが生まれつつある。稽古まであと10日あまり。まだ10日もあるのに「Do!太宰」は、かつてない面白さになってきつつあるのだ。

2010年3月13日 02:18 | コメント (1) | トラックバック

葉桜と魔笛

久しぶりに太宰さんの影が見えない、短編小説。


女の人が語るその見せ方から、「女生徒」などを思い出す。


うまい仕組みの小説になっていて、最後まで「へえ」とか「ほお」とか、小さな驚きが続く、物語の巧みさがいい。映像か舞台か、いずれにしろ脚本にしやすそうな作品に思う。たまにこういう物語の普通に運ばれる小説があると、ありがたみすら覚えてしまうよ太宰さん。


その気になればこういうのも書ける所が憎いが、こういうのを書いてどう思っていたのか、本人の感想が気になる所だ。


職業か芸術か。太宰さんがよく考えるそれだ。これをどちらの立ち位置で書いたかが気になる。

2010年3月12日 02:15 | コメント (0) | トラックバック

懶惰の歌留多

自分がどうにも怠惰でいけない、怠惰は最大の悪徳である、と散々いろんな言葉を費やして自分のダメさ加減について書き綴ったかと思えば、“ ええッ! ”のひと言から歌留多の文言を書き始める。よく思うことだが太宰さんはおおむね前置きが長い。でもその前置きが後半で生きてくるから、削るわけにもいくまい。上演時間の長いと言われる私はそこに共感する。


いろはにほへと・・・の順に。例えば “ い ” なら、“ 生くることにも心せき、感ずることも急がるる ” とあり、その後に、そのことを解説するような文章がついてくる仕組みだ。


“ ろ ” の “ 牢屋は暗い ” など、身もふたもない言葉がいい。


“ に ” の “ 憎まれて憎まれて強くなる ” の中で、“ 私は、長生きをしてみるつもりである。やってみるつもりである。” とあるのが、ダメで笑える。やってみるつもりって。やって、みる、つもりって。弱い、言葉が弱い。結局早く死んじゃうじゃんよアンタ、とツッコまずにいられない。その時の決意っぽいものを文章に起こしてしまい人に見せる、それはきっとダメなことなのだな。今後は私も、ブログで決意とか語らないようにしてみるつもりである。


“ いろはにほへとちりぬるを ” と続き、“ よ ”の “ 夜の次には、朝が来る。” で終わり。あれ? “ たれそつねならむ ” は?とも思うが、まあ、この言葉できれいに締めたかったのだろうさ。


短編集のような、あと、自虐と決意集のような趣き。

2010年3月11日 02:12 | コメント (2) | トラックバック

I can speak

本日より、新潮文庫版「新樹の言葉」を。


これまで新潮文庫版「走れメロス」、「晩年」、「二十世紀旗手」を読んできて、時系列的にはどうやら本当は「きりぎりす」に所蔵されている作品のいくつかが、次に読むべき作品のようなのだが、残念ながら手に入れたいタイミングで新潮文庫版「きりぎりす」が手に入らず、じゃあまあいいさ、同じようなタイミングに発表された作品を多数収録してある「新樹の言葉」を読むことにした。


「I can speak」は、昭和14年2月号の “ 若草 ” にて発表されている。同じ時期の発表作としては、「走れメロス」に収録されている、「富嶽百景」がある。


甲州の三坂峠に下宿していたことや、その後甲府へ移ったことなど、「富嶽百景」とつながる件があり、お、ここにつながったか、と、頼る地図も無くウロウロ歩いていたら思いもかけず見知った道に出たような喜びがあった。作品とは関係ないことだけど。


三坂峠の秋冬が耐えられず甲州へ出たら “変なせきが出なくなった。” と、唐突に、変なせきが出てたことを言われ、なんじゃそらと思わせる。「富嶽百景」の中ではそんなこと言ってなかったじゃないか。心の中で小さなツッコミを入れることが、太宰さんの作品を読んでいるとそういうのは多い。


「I can speak」は、「満願」ほどの短さの短編。太宰さんはエッセイに近いものもよく書いていることがわかってきて、だけどそれらが事実だけではなく、若干の捏造をもって書かれている可能性があることを知り、だから “ 私はいついつの頃、どこどこに住んでいた。” みたいな、太宰さんの事実から入るパターンの作品を読んでも、その後に待ち受けているものが必ずしも全部事実というわけではないと思えたら、幾分太宰さんにイライラしなくなった。これから読む方には、「へえ」とか「ふうん」くらいの距離感で読むと良いのかもしれないと提案する。


しかしながら、生活のこと文学のこと、真っ当な人間になるべく悶々とする日々のか細かろうアンテナに引っかかった一瞬の出来事を、ぐっとロマンチックに仕上げる、その手管は相変わらずで、そう、良く出来たブログの文章のよう。私もたまにはぐっと来るブログを書きたいものだと思う。


太宰さんにブログを与えたら大変なことになったのだろうか。あるいは金にならないからと、全然更新しないか。

2010年3月10日 02:07 | コメント (1) | トラックバック

勝負はここから

コリッチ舞台芸術祭り!2010の、最終選考10団体の一つにブルドッキングヘッドロックが選ばれました。


コリッチってナニ?て方は、すいません、実際見に行ってご確認ください。「Do!太宰」のページもあります。


いろいろと重なってきて、パツパツなはずなのに、寒いし雨だしなんか気力がフルにならない感じがもどかしい。日常のサイクルがズレている。


近々、恒例のものがブルHPで公表予定。太宰の優先予約もいずれ始まりますし、そろそろ春めいていただかないと、ほんと。

2010年3月 9日 23:35 | コメント (4) | トラックバック

HUMAN LOST

精神病院に入院させられた太宰さんの、入院させられた恨みとか哀しみとかが日記形式で綴られる。


「妻をののしる文」とか、「私営脳病院のトリック」とか、「(壁に。)われよりも後に来るもの、わが死を、最大限に利用して下さい。」の「(壁に。)」とか、「誰も来ない。たより寄こせよ。」とか、怒ったり悲しんだり寂しくなったり、日々気持ちが上り下がりしていて大変だが、かわいそうと思うのも違う気がするし、なんなのか、なんと思えばいいのか、だんだんわからなくなる。


なんとも思わぬわけにはいくまい。いくまいが、なにを思ったとしても必ず太宰さん本人の思いとは食い違う気がする。食い違うしかないのだ、きっと。私が太宰さん同様、薬に溺れ狂ったとしても、やはり考えは食い違うはずだ。で、今のとこそこまでわかりやすくダメではない私は、やはり太宰さんと食い違うはずだ。人と人は大なり小なり食い違う。


人とは孤独であると思う。人には、その孤独に気づかず生きていく術がある。気づいてなお生きていく術がある。その中にも何パターンかの選択肢があり、それによって人は千差万別だ。あとは死ぬという術がある。


なんせ生きるか死ぬかしかない中で、偶然か意識的にか、この時点では生きる方を選んだ太宰さんだ。そして小説を書くことを決意する。生きてモノを作る。そのことを選ぶ点で、ようやく私と太宰さんは食い違わない。ごめんなさい横並びにして、レベルは全く違えどもでーす!


退院の日。これからこうします、ということがとても前向きに書かれている。が、その前向きさがなんだか不安にさせる。急にちゃんとされると不安だよ太宰さん。そういう人を、自分を含めよく見るだけに、なんともはや不安だ。ダメな人ほど前向きを語るよ太宰さん。


まあ、やがて来るこの人の結末は知っているので、心底心配することはない。以上。


はい!これにて新潮文庫版「二十世紀旗手」読破!ふいいいいいいいいいいす!


「HUMAN LOST」の最後の希望的な幕引きに、ダメな人ならではの不安を感じはしたものの、この後、太宰さんはジワジワと社会復帰を果たしていく。で、新潮文庫版「走れメロス」に収録されている、どこか優しげな口当たりの作品を世に出し始める。「満願」とか「富嶽百景」とかね(もはや懐かしさすらある!)。少しは読む側を楽にさせてくれるだろうか。この後もいろいろあるようだけど、私生活でも。


すでに次の文庫に突入している。新潮文庫版「新樹の言葉」。まだ幾分ゆらゆらとした印象はあるが、本人の変化が反映されてか、希望の気配が漂っている。それを読み終わったら今度は新潮文庫版「きりぎりす」。その後も、「津軽」、「右大臣実朝」、「ろまん燈籠」、「お伽草子」、「斜陽」、「パンドラの匣」、「ヴィヨンの妻」、「人間失格」、他にもいろいろ。むしろ太宰と言えば、みたいな作品がこの先にわんさか控えているわけだ。それらを読まずして Do!もなにもないだろう。


果たして私は稽古始めまでに、遺作「グッド・バイ」まで辿り着けるのだろうか。

2010年3月 8日 19:31 | コメント (3) | トラックバック

二十世紀旗手

序唱から始まり、数えて十二の唱からなっている。


神をも恐れぬ青年が、恐れを知らぬばかりに神の罰を受けて、あーもー地獄だ。みたいな序唱から始まる。


六唱、「秘中の秘」編集部とのやり取りが、果てしなく情けなく、これはもう喜劇だ。太宰さんの前置き、そしてそれに対する「秘中の秘」編集部の爽やかな冷酷。笑える仕組みになっている。その後、八唱でどうやら太宰さん、なんだかんだいちゃもんのようなことをぶつぶつ言ってたかと思ったら、やがて「秘中の秘」編集部へ乗り込んだらしく、そこでの会話もまた喜劇だ。「秘中の秘」編集部の、“・・・・・・・・・。”という無言がいい。いいリアクションだ。「秘中の秘」編集部の、“そんなら歩いて帰りたまえ。なんだい、君、すぐそこじゃないか。”もすっかりツッコミではないか。


それにしても「秘中の秘」。いい響きだ。どんな雑誌だ。どうでもいいけど。


幾つかのアイディアを、うまいこと混ぜこぜにして構成したような印象がある。実際はそうでないかもしれないけど。


終唱で、楽屋落ち的な、太宰さん本人の談のようなものが出てくるのは、まあ、無くてもいい気がしました、太宰さん。

2010年3月 7日 19:29 | コメント (1) | トラックバック

喝采

毎月一度、世にも幸福の物語を囁き交わさんという趣旨のクラブ。幸福クラブ。なかなかに気色の悪いクラブである。仮面をつけた紳士淑女をイメージする。アイズ・ワイズ・シャット的な。あの頃のニコール・キッドマンはよかった。今はなんかもう大物感漂わせすぎて。いや、そんなことはいいとして。


一番手の語り手として、細々と生きている小説家が登場、幸福クラブに到底ふさわしくない現状を露にしつつ、作家の友情について語り出す。


まだおおよそ折り返しに至らぬ程度にしか読んでない太宰作品だが、いよいよその、ひたすら自分のことを手を変え品を変え表現してみせる手管に敬服する私だ。


友人への謝辞を小説に落とし込む、その現実と虚構の混濁具合が、良い。加えてそれが、今現在のどうにもならなさがあればこその、かつて自分を支えてくれた友人への思いということであれば、一般的にも感情移入しやすく、その前に読んだ「創世記」が大変だったこともあって、印象が良い。比べるもんでもないのだろうが仕方がない。


なんとも気色悪いクラブにおいて、どうやら本来のクラブの趣旨と微妙に違うのではないだろうか、苦しみの奥の埋もれかけた幸福をがさごそと引きずり出してくるその無様な様子は、自虐的で皮肉的で、やはり大変な時期の作品なのだと思わせるけれども。

2010年3月 6日 19:27 | コメント (1) | トラックバック

創世記

まずいことになったなあと思った。


どうにも読めない。


ワケがわからないのである。いや、かろうじてわかるのだが、そこはまさにかろうじて、たいそうなエネルギーを労し、ほとほと脳みそが大運動会、さらにはこれ、冬の木枯らし強き二週間は前の過去の読書、案の定、あんなに回路炎上、運動したはずの脳みそ、ほとんど情報受け取れぬまま壊れかけのレイディオ、試験前の一夜漬けのごとく、あるいは始めた次の日にやめた筋トレのごとく、血にも身にもなりがたく、思い出すのもひと苦労、便器の上で小一時間の労苦のごとく「あぅす、ふぅす」のてい、かくてかような、にわか太宰治的文章もて、それとなく行数を稼ぐに至り、お恥ずかしい限り、我ついぞは言わんや、「太宰さん、もうちょっとわかりやすく書いてくんないかな。」


しかたがないのである。この頃の太宰さんは、すっかり薬物中毒であったようで、その症状と戦いながら、おおむね負けながら、周りに当たり散らしたりへこみ散らしたり、そんな案配の中で書いた物なので、もう、しかたがないのである。読む方が気を張って読むしかないのである。


最後、井伏鱒二の家に呼び出され、やぁんわり小言を食らいそうになるエピソードも、実際そんなことがあったかどうかは知らないが、あったこととして書かれちゃった井伏さんも参っちゃっただろうし、なんかたしなめるにもたしなめきれない、一見すっかり平静を取り戻したかのような太宰さんに、でもおまえほんとはヤバいよ、と言えない井伏さんが想像され、やっぱりなんか、しかたがないと思うしかない。


そうなっちゃったもんはしかたがない。それって、恐るべしである。

2010年3月 5日 19:25 | コメント (3) | トラックバック

雌に就いて

二・二六事件が起きた日、主人公は客人と火鉢を囲んで女の寝間着について話している。


二・二六事件のことに触れたのはこの作品だけではなかった気がする。触れるたって、事件が起きた日、としか書かれてはいないのだが。それだけ強い印象があったのではないか。そりゃあるか、国がひっくり返ろうという事件だ。自衛隊が首相官邸にミサイル突っ込んだら、ねえ。そして、その事件のインパクトを、自分との対比として使う。青年将校たちは大義であり、太宰さんは矮小だ、と言う印象を、物語の入り口で与える。


女の寝間着の話はいつしか女と旅に行く話になり、女と二人旅をする様子を主人公と客人は妄想するのだが、やがてそれが妄想ではない領域へと踏み込み、カットアウトするように会話は終わる。


結果、その妄想は、7年前の鎌倉での太宰さんの情死についてのことであるということがわかる。最初は呑気だったはずのやり取りが、暗く陰鬱なものとして仄暗い煙のように立ち昇り、ふっと消える、その読後感が気持ち悪くて、良い。


望む所だったのだろうが、これ読んでも太宰さんをかわいそうだとは思わない。かといって、ともに旅し、やがて一緒に死のうとして自分だけ死んでしまった女性のことをかわいそうと思うかというと、これまたどうもかわいそうと思いきれない。なにやってんだ二人とも、だ。


しかし、二・二六事件がたいそうなもので、二人の情死とそれを抱えたままノロノロしている男がたいそうなものではない、という考えも当てはまらない。というか、当てはまらないと思わせる。先に二・二六事件が起きた日、と書くことでそう思わせられる。太宰さんはつけいるのが上手いなぁと思う。甘えるのが上手いということか。何十年も経って読んだ一読者にそう思わせるのだから。


ところで重要なのは、女への子細なこだわりだ。太宰さんと客人の、女への妄想の子細なこだわりが、一人の女の死を我々無関係な読者にとっても重要なものへと高めていく。


やはり大事なのは細部だと、なんせ思う。

2010年3月 4日 19:19 | コメント (1) | トラックバック

虚構の春

太宰さん宛に送られた無数の手紙によってのみ構成されている。


少しずつ太宰さんご本人にまつわる知識も増えてきたので、時おり織り交ぜられる井伏鱒二ら実在の人物からの手紙の登場に惑わされる。惑わされるというのは、序盤は、実際に太宰さんに届けられた手紙を転載しているのかと思わせるくせに、やがて、これ太宰さんのことじゃん!(またか!)という内容の手紙が太宰さん宛に送られて来たりして、「ん?どういうこと?」となるうちに、読者は、つうか私は、虚々実々入り交じった手紙に翻弄される仕組みになっているからだ。


実際に送られてきた手紙を掲載している部分もあるのだろう。あるいは実際のものに太宰さんが手を加えている可能性もある。そして実は書きたいことを書くための嘘。と、全くのデタラメ。


この、虚実の入り組み具合がこの作品の読み物としての魅力ではないか。巻末の解説を読めば、太宰の重要な真実の言葉を数多く発見する、太宰研究上の宝庫だ、とあるのだが、そんなこたぁどうでもいい。私に限って言えば、私が読んで面白いかどうかだ。で、面白かった。長いけどね。


ただ、私が面白かったのはその惑わされ具合によるところが強く、それは、太宰さんが自殺未遂を繰り返しているとか、共産運動に参加していたとか、実家が金持ちだったとか、そういう前知識を私が持っていたから余計そうなのであって、そう言うことを知らない人が読んだら、しばらくして放り出してしまうのだろうか、とか考える。わけがわからんと言えばわからん作品だから。


しかし粘り強く読むことをお薦めする。最後、元旦に届いた「謹賀新年」らの言葉に混じって、いたく悲しい一文が混ざっていて、なんとも自虐的で、その一刺しが上手い。そして、全編通してあくまで太宰さん本人ではなく、他人の言葉によって少しずつ太宰さんという人のその当時を浮き彫りにしていく、その見せ方が寂寥感を強く高めてくれて、本人がどうのこうの言ういつものそれより、幾分か受ける印象がいい。


作家として曝け出したいなにかと楽しませたい技術。併せ持っているなぁと思わせる。

2010年3月 3日 19:17 | コメント (2) | トラックバック

ありゃりゃ

そうか。コメントで気づきましたごめんなさい。コードブルーの第8話に出演、しました。


つい先日自分の所属プロダクションのサイトの活動予定を見たところ、コードブルーの件は掲載されてなかったので、あ、まだ先なのね、と思って放っぽっといたんですが、今日見てみたらすっかり掲載されてました。ありゃりゃ。


告知できずすいませんでした。サッカー部の生徒がみんなアナフィラキシーショックになって困っちゃった先生が病院にバスで乗りつける、その先生役でした。助けて下さい!みたいなことをガッキーさんに言ったような気がします。一瞬の出演だったんで気づいた方はほんとに凄い。気づいてくださってありがとうございます。


しかしまあ、自分の存在を不思議に思います。一応これでも演出家として、例えばリンダリンダラバーソールなどでは数多の役者さんの中から出演者を選ぶ立場にいる私です。かと思えば、無名の役者としてドラマの現場に出かけ、一瞬のシーンになにかを残そうと必死に無名の演技もする私です。でも言っちゃなんだけど、デメキングという映画では主演のなだぎさんと並んで主演ぽい仕事をしていたりもするし、なんだったら脚本家としていろんな現場でいろんなことの命運を握るような仕事をさせていただいたりもします。で、それだけならまだしも、アニメではたいそうな役割をさせていただき、私なんかより何百倍も才能も知名度もある方に「え!一歩なんですか?!」と垂涎の眼差しで見られたり、パシフィコだ有明だと、本来の私の能力では絶っ対に立てないようなところで歌とか歌ってたりもするし、CDも出してるし、カラオケの本には自分の名前が掲載されていたりする。劇団を立ち上げて10年、かなり稚拙な方の社会人として、稚拙にノロノロと生きてもきました。


何者なのかと。


何者でもない者でありたいという願望に少しずつ近づいているのでしょうか。依頼さえあれば、ワイドショーのコメンテーターだって、なにかの審査員だってする私でしょう。映画だって撮るしマンガだって描きますよ、やれと言われたら。そんな能力ないけど。頼まれないけど。


しかし自分を決めないということは非常に難しい。心と頭を柔らかく、謙虚に、好奇心を持って。すぐ堅くなり、横柄になり、好奇心がぼやける私です。修行修行の日々です。


次は間に合うように告知します。春先には次のお仕事の告知が出ます。すでに、時速246とナイロン100℃のことはtopに掲載されていますので、興味のある方はよかったら、ぜし!あと、やよいさん、コメントありがとうございました!

2010年3月 2日 15:29 | コメント (13) | トラックバック

ブグルイイイイイン!

太宰を再開してすぐ話がそれて恐縮だが、とても心躍るものが我が家に届いたので書かずにはいられない。


ミル&ミキサー。


前から気になっていた家電品だ。家電芸人のような、背後に家電業者の存在を感じるほどのマニアックさは持ちえないが、家電品は好きだ。ずっと店内にいられる。機械は美しい。


で、最近とくに調理に興味のある私はミル&ミキサーに目をつけていたのだ。


小さい、一人分のジュースを作る程度のサイズのそれが、先だって書いた小さなコーヒーメーカー同様、愛着を持つのに具合がいい。


ほおずりをしたい気分だが、35歳の皮脂がドロリと付着するのでやめる。


さっそくバナナジュースを作ってみましたよ。


牛乳、バナナ、ハチミツを適量。

ンブギイ!(恐る恐る一回だけ回してみた)




ンブギイイイイン!(もうちょっと行けそうだと思ったので回してみた)




ンブルギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイン!(思いきって)




(飲んでる間)




んナアアアアアアアアアアアアアアアアアイス!
ンマアアアアアアアアアアアアアアアアアアイ!
ンブハアアアアアアアアアアアアアアアアアア!


実際には、適量の適がわからず、作り過ぎ、全部飲むのに「ン、ン、ンコプフ!」となりながらではあったのだが、味は最高。ふわっふわ。


たまにはこういうことも楽しもうではないか。やがてそれどころではなくなるのだ。


次に考えているのは、塩。干し椎茸や鰹節を混ぜ、オリジナルの味塩を作ろうと思っている。


残念ながらミル&ミキサーは自分で手に入れたものですが、時を同じくして、貴重な誕生日プレゼント、お手紙、たくさんいただきました。所属事務所に届けていただいたものも無事受け取りました。ありがとうございました。そして、
うどんの国のSAORIさん
みずきさん
恵美さん
ちょちょさん
コメントありがとうございました!

2010年3月 1日 16:28 | コメント (10) | トラックバック