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狂言の神

昭和10年に起こした鎌倉での自身の自殺未遂体験を扱っている。何度目だったか、何度目かの自殺だ。で何度目かの未遂だ。


「笠井一」という人物が就職試験に落ちたことを理由に縊死したことを、「私」という作者が語るという仕組みになっているのだが、太宰さんそれを途中で投げだして、笠井とか言っちゃってるけどこれ私自身のことですと言い始める。で、そこからは虚々実々、どこまでがほんとの体験で、どこまでが装飾されたものかわからない、アイロニカルな調子と心地よいテンポで太宰さんが自殺するまでが描かれる。


自殺の話が心地よいテンポッてのもどうかと思うが、実際読みやすく、おかしみも多い。太宰さん、笑い泣き。


ナポレオンに似た女とホテルで一晩過ごしたり、酔って見ず知らずの客とデタラメな会話をしたり、死ぬけど金のことは一生懸命勘定したり、死のうと思って辿り着いた江ノ島の海岸が入っても膝小僧を濡らす程度の浅さだったからやめたり、雨宿りする女学生に気持ちが揺らめいたり、鏡に映った自分の顔を「キリストそのままであったという。」と言ったり、無苦痛だしかなりの高確率で死ねると人から聞いていた縊死(首つり)を選び、でも実際やってみたら凄い苦しいし全然死ねないし、やがて「やめ!」つってやめちゃうし。


ダメすぎて。


おかしみは、或るギアが入らないと思いつかない反面、常識的、客観的な状態をいくぶんか自分の中に保っていなければ描けないと思っている。鬼気迫った状態でみせられたおかしみは、おかしみなんだけどやっぱりおかしくはないというか笑えない。その点、これを書いた時の太宰さんは、少々普通の人状態であったのだろうと思う。心中自殺の後日談を描いた「道化の華」にも似たような客観性を感じたので、なんか一回死のうとした後ってスッとすんの?と思うのだがどうなのだろう。


ふと考えるのは、一番最後の自殺、成功しちゃったやつ、玉川上水で。あれが失敗してたらどうしてたのかね、またなんかそれにまつわる本を書いたのかね、ということだが、まあその辺のことは「人間失格」の先、まだまだずいぶん後で考えることかもしれない。

2010年2月28日 16:23 | コメント (3) | トラックバック

よし再開

紫椏さん、わずかの差で僕が先に更新してしまったみたいですね。「35」へのコメント、ありがとうございました!


岬さんがお気に召した「ありざいあす!」は、“黒いインクの輝き”において、御手洗って女の子(第4アシスタント)が、普段褒められ慣れてないのに褒められてしまい、テンパッて慌ててありがとうございますと言おうとして、グジャッとなっちゃった結果の言葉です。私自身、お気に入りのセリフの一つです。愉快なセリフは、案外簡単な言葉から生まれるものだと思います。ちなみに公演中、グチャッとしていることをよりわかりやすくしようとして、「ありございあす!」「ありございす!」「ありごぜす!」と変化していきました。


余談でございました。さて、そろそろ太宰に戻りましょうか。すでに新潮文庫版「二十世紀旗手」は読み終わっているのですが、この頃の太宰さんは中毒症状に悩んでいたり、まあそれはそれはボロボロの頃だったので、どの作品の文章もメタラクタラでして。感想書くのにも気力がいります。ので、ちょいと更新もひと息ついておりました。そうもいきますまい、ということで明日から再開します。


先日、劇場下見をしてきました。チラシにも書きましたが、3度目の星のホール。新たな面白味を見つけるべく、スタッフさんと思考を巡りに巡らせております。


楽しみです。

2010年2月25日 23:52 | コメント (5) | トラックバック

ありざいあす!!

毎年変らずたくさんの方から祝福の言葉をいただき、感涙ですオレ35歳。


まぁさん
あひるさん
かこさん
ポンキチさん
セカンドさん
雄人さん
もかさん
りかさん
ヤヒロさん
キャサリン(国産)さん
ゆかりどん
智也さん
上海のかよこさん
千裕さん
真中苺さん
岬さん
ユキさん
さなさん
なみこさん
あけみさん
やっちぃさん
ようこさん
良湖さん
康子さん
芥さん
遊馬さん
***************************さん
台風7号さん
shioriさん


みんな、ありがとう!


ほんとならひと言ずつでもコメントをお返しすべきところなのですが、なかなかそうもまいりません。ごめんなさい。いつもコメント読ませていただいてます。これからもどうぞコメントよろしくお願いします。ほんと気まぐれで申し訳ないですが、まれにコメントをお返しいたしますので。


春めいた気候で心も軽くなりますな。で、軽くなって油断して昼寝とかしてしまいますな。ああ!時間を返してください神様!

2010年2月23日 19:04 | コメント (7) | トラックバック

グイグイ来てます

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春が来ている確実に。梅は咲いたか桜はまだかいな。と頭の中で呟きながらシャッターを押しましたが、これ、桜でした。

2010年2月22日 19:18 | コメント (1) | トラックバック

写真もたまには

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新メガネを購入。大きめ。花粉をブロック!

2010年2月21日 19:33 | コメント (1) | トラックバック

35

おかげさまで本日より35。風呂から出て、全裸で部屋に戻ったら日付が変わってました。生まれたまんまの姿とはオツなものでございましょうか。


だいぶ生きたものです。ありがとうございます。


とくになにを意識するでもなく、ただただ愉快にやっていけたらと思いますが、なかなかそればっかりとはいかない世の中です。それでもまあ、なるべく愉快であれと思います。自分も、周りの人たちも、遠くの人たちも、それぞれが愉快であるよう、そのために必要な努力と工夫をこれからも。


僕らの毎日にささやかなおかしみを。


そんな感じで(どんな感じ?)、これからもよろしくお願いいたします。

2010年2月19日 00:00 | コメント (32) | トラックバック

いいねやっぱり早起きは

無事遅刻せず現場へ到着。


どこだここは。見渡す限りの濃霧。なにもない。そして極寒。


仕事じゃなきゃ絶対来ねえぞこんなとこ。そんなとこで仕事。仕事自体は楽しく。


お仕事週間は続く。

2010年2月14日 23:31 | コメント (2) | トラックバック

近況を届けつつ

もう間近ですが、劇団 競泳水着さんの公演の、アフタートークに出演することになりました。


2月15日(月) サンモールスタジオにて


終演後、作・演出の上野友之さんとお話しします。


競泳水着さんとは、一昨年に西山が客演させていただいて以来のおつきあいで、昨年7月の「ケモノミチ」には、同劇団所属の川村紗也さんに出演してもらったり。「黒いインクの輝き」に出演してくれた、辻沢綾香さんや梅舟惟永さんは、競泳水着の方ではありませんが、常連のように出演なさっていて、それで縁あってうちにも出演してもらったのでした。そんなわけでお世話になっているという。


10年も小劇場界隈をウロウロしていて、未だにどこにも受け入れてもらえてる感の無い私ですが、競泳水着さんはすっかり小劇場注目の劇団さんのようで、小劇場ファンの方々に愛されていらっしゃる様子です。たいしたもんです。当日のアフタートークもどれほど私にとって見知らぬアレになるかわかったものではありませんが、せっかくなので楽しんでこようと思います。あ、単純に観劇も楽しんでまいります。


観劇といえばここ最近では、ONEOR8「ゴールデンアワー」、阿佐ヶ谷スパイダース「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」を拝見。近頃は、ネットで事前に感想を目にしてしまうことが多く、先入観を持ってしまうことも間々あって困ってしまうのですが、個人的にはこの二作、ネットで見かけた劇評とは全く異なる感想を持ちました。ネットの劇評というのも難しいものです。やはり自分の目で見るしかありません。


なんだか急にあわただしい日々を送っています。先週は打合せと飲みに費やした日々でしたが、今週末から来週にかけては久しぶりに、仕事に行くんだなぁ・・・という気分です。すっかり縁遠くなってしまっておりました、映像関係のお仕事に出かけたりします。だいぶアウェイなのでとても気分が沈みますが、しかたありません、働かないと生きていけないので行ってきます。役者だろうがっつうのな。ただもうほんと、朝早いのが、怖くてしかたがないですよ遅刻が。


2010年2月13日 22:21 | コメント (3) | トラックバック

めくら草紙

新潮文庫版「晩年」の最終収録作「めくら草紙」。


これも巻末の解説によるのだが、「めくら草紙」は「晩年」の中に含まれていない、「晩年」以降の作品ということらしい。確かに単独での発表時期を調べると、最初に読んだ「ダス・ゲマイネ」よりも後だし、そうなのだろう。私が調べるまでもなく。


中毒症状に苛まれていた時期と符合するようで、まあなんとも辛そうだ。というか独り言がまんま文章になった感じ。と思いながら読んでたら、独白を筆記させたものだと自らタネ明かししてくれた。


小説と格闘する自分のことを書いていたはずが、隣家のマツ子の話へと逸れる。ここでも女の存在が大きい。


最後の強がりな文章が、よりいっそうの女々しさを感じさせる。書かなきゃいいのだ。それを書くのだから、やはり甘えん坊なんだろうと思う。


さて、「晩年」終了。印象としては、太宰さんバンバン出てくるなぁ、ということ。太宰祭りだこりゃ。と思いました。23歳から27歳辺りの作品ということで、「どうにもならん!」というぼやきは私にもあった頃だと思われるし、しょうがないのでしょうけども。


次は、新潮文庫版「二十世紀旗手」。「晩年」の後に書かれた作品群が中心。「道化の華」とあわせて、「虚構の彷徨」三部作となる作品等が収録されている。何度目かの自殺のこととかね。まだまだダメな太宰さんがわんさか押し寄せてくるわけだ。この山を越えねば「メロス」の頃の太宰さんには辿り着けない。


太宰さんもそれはそれは大変だったのだろうが、読む方だって大変だ。

2010年2月13日 17:00 | コメント (1) | トラックバック

陰火

巻末の解説によると、「逆行」と対をなしているのだそう。たしかに「逆行」同様、四つの掌編からできている。


四編ともに女が印象的。“ 水車 ” はわかりやすく、“ 尼 ”はまるで夢を見ているように困惑させるが、どちらもエロティック。“ 紙の鶴 ”も“ 誕生 ”も、表に出ては来ないが、妻の存在が大きく、その妻の秘めた何事かが、多く語られぬだけに興味をそそられる。太宰さんは、ちょくちょくちょっとだけエロいと思わせる。


表向きには、やはりその時々の太宰さんの心象が反映されているのだろうと思わせる、侘しい男の様子が執拗に描かれている。ちょっとこの時期の作品を読むことに飽きてきたよ、正直。だって、オレオレオレオレなんだもん。「晩年」読破まであと一作。

2010年2月12日 16:59 | コメント (0) | トラックバック

道化の華

昭和五年、鎌倉で心中自殺を図った後の自身の体験を元に書かれている。


大庭葉蔵という主人公が女と心中するも救助され、海沿いの療養院へ運び込まれる。そこに見舞いにくる葉蔵の友人たちと、真野という看護婦を中心に描かれる、穏やかな数日間。みたいな。「思い出」に続き、当時の太宰さんの告白度の高い作品で、「晩年」の中では比較的長編
の部類に入る。


繊細で、へなちょこな若者たちの姿が印象的だが、それは太宰さんが自身らのことをそう評したいが故だろう。私は自殺をしたことが無いからわからないが、現実を直視しきれずフワフワヘラヘラしている感じは、例えば、メシも食えないのに演劇とかやっていた20代の自分に当てはまらなくもない。そういう共感みたいなものが、太宰さんを支持させるのだろう、10年前に読んでたらね。


で、この作品にも工夫はあり、それは、書いている太宰さん本人がちょくちょく顔を出し、自分が今まさに書いているそれについて、あーだこーだと文句をつけるのである。だけどなんだかんだ言いながら書き進める。読者に対しても語りかける。で、なんか甘える。


どうしてそうしたかったのか。そうしなければ伝えたい全てが伝わらないと思ったのか。その気持ちはわかる。その都度注釈を入れたい気持ち。全部に言い訳と解説が加えられたらどんなにか自分の作品の正当性を伝えられるだろう。ただ、どう伝わろうが、なにを題材にしようが(それが自分自身のとても重大な事件だったとしても)、そこから作り上げた虚構のみでなにかを表現したいという “心意気” みたいなものも私にはあって、できたら作者自身は登場させたくないと考える。太宰さんはご自身のことについて神経質だったのかしら、と思う。それともただの面白みのための工夫だとしたら、ちょっとうっとおしいす太宰さん。


あ、あと、看護婦への微かな衝動がエロくていい。女性にしてみりゃろくでもないとお思いになるだろうが、そんなもんだ。どうしたって生きてりゃ腹は減るし、チンコも勃つのだ。

2010年2月11日 01:30 | コメント (0) | トラックバック

地球図

“ 猿ヶ島 ” 同様、楽しみやすい作品、とても悲しいお話だけど。


ようやく本願を成就する機会に恵まれるも、聞き捨てられてしまうのでは、絶望もひと塩というものだが、その後もめげずに自分の信じるところを伝え続け、牢獄で折檻を受けながら死んでいく。


なにがそこまでさせるのさ。と思うのだ。


将軍が主人公の処遇について、上、中、下のうち、“ 中策 ” を選ぶのだが、その、中を選んじゃうところと、主人公の死ぬ間際までも訴え続ける執念とが対比のようになっていて、主人公も悲しいが、中な将軍も悲しい。

2010年2月10日 00:56 | コメント (2) | トラックバック

猿ヶ島

個人的には謎の答えがだいぶ早い時点で予想がついてしまったので残念ではあったが、娯楽作としても楽しみやすい作品。


ラストの熱さは、“ 猿 ” だからこそオツですな。文壇を風刺しているとか、あんまり隠喩的なことは意識せず読みたいところですが。

2010年2月 9日 00:00 | コメント (0) | トラックバック

先週の話

太宰のことではありません。


このところ、いろんな方に会っている。という私の話。


それはもう、何年も会ってなかったような方や、昨日会ったよね?みたいな方までいろいろだが、なんせ会っている。


皆さんそれぞれに心当たりがございますでしょうが、重なる時はとにかく重なる。私の場合それが顕著で、なぜか先週など、打合せですつったら、毎日のように違う用件の打合せが入り、飲みますつったら、毎日のように違う方々と飲む、という案配であった。いや別に忙しいわけではない。ただ重なるね、という話。


毎日いろんな方にお会いして、毎日違う種類の話をさせていただいた。恥ずかしながらモテていると思った。相手の多くは男性だったのですが。


いずれはご報告もできましょうが、やがては面白い形になるであろうお話を、幾つかさせていただいている。テンションのうんと上がるものから、気の引き締まるものまでいろいろだ。


今週はおそらく、一人こつこつと作業を進めることになる。先週いただいたあれやこれやを、今度はこちらが返す番なのだ。


ひとまずまた太宰に戻ります。

2010年2月 8日 23:21 | コメント (3) | トラックバック

雀こ

“ 井伏鱒二へ。津軽の言葉で。” という文章で始まる。


どういうことだろう。井伏鱒二に師事していたことは知っている。意外とややこしい関係だったという説があることも、小耳に挟んではいる。なぜこの作品を井伏鱒二へ、としたのかは、やはり太宰さんを知る上で気にしなければならないだろう。


太宰さんの命日に行われる桜桃忌で、毎回朗読されてた作品だそうだ。津軽弁で朗読すると、そのリズム、メロディがとても心地よいらしい。残念ながら、「Do!太宰」は桜桃忌よりも前に行われるので、朗読を聞けないのだが、どうなんだろう。


子どもたちの残酷さが、澄んだ情景の中で、より鮮明に浮かび上がる。そんな作品。

2010年2月 7日 18:54 | コメント (2) | トラックバック

玩具

“(未完)”と表記されて終わっているので、未完なのだろう。


しかし、“(未完)”というのはわざとで、そう表記することで、より幻惑させようとしているのではないかと一瞬思わせる妖しさもある。それは後半の、幼少期のイメージの羅列のよくわからなさによるものももちろんだが、前半の作家本人の吐露によって惑わされたところもある。


これ演劇で言ったら、途中でいきなり私が舞台上に作家として出てきて、


「あの、すいません。いいですか?ここまでのシーンには自信がありまして、この先こういう風にしたいという工夫もあるんですけど、なんか正直言いますと、書きたくないんですよねなんか。いいですか?いろんな工夫はさておき、ちょっとずつでいいならこの先もお見せしますけど。いいですか?ちゃんと見てくれます?あじゃいきますね。えっと、私の1、2歳の頃の記憶なんですけど・・・、」


で、役者が出てきて私の幼少期の記憶を断片的に演じて見せていく、という作りになってるわけだ。客は、わざとか?本気か?当然戸惑うだろう。あげく最後、もう一回私が出てきて「ま、未完なんですけどね。」と言い、突然カーテンコールが始まったら、客は、え?わざと?わざとなの?となるだろうよ。


まあ実際は、書きたいイメージはあるのにほんとに書けなくて、正直に書けないということを書き、で結果 “(未完)” で終わっただけなんだろうなあと思うのだが。「ロマネスク」の、やりきれずに吠えている主人公を見ていたりするとそう思う。

2010年2月 7日 01:54 | コメント (2) | トラックバック

逆行

「蝶蝶」「盗賊」「決闘」「くろんぼ」の小作四編からなる作品。


タイトル通り、逆行していく。


四編それぞれに、主人公と太宰さんの関連する部分を見つけてしまうので、おいおいこれまた太宰さんじゃん、てことになるのだが、そう思って一作目の「蝶蝶」を読むと、絶望とおどけが混然としていて、なんとも奇妙だ。そらそうか、「蝶蝶」だけは架空の度合いが他より強い。自分で遊んでいるのだな、これは。


そして遡っていくことで(逆行)、その時々の絶望が見え、一つ一つのそれはなにかを決定的にするほどのインパクトで主人公に襲いかかるものではないのだが、折り重なることで、その絶望が深いものに感じられる。幾重にも重なっているのだね、となる。


そういう作りが面白いと思うのと、架空なら架空でよく自分のことに結びつけるなぁと思うし、事実なら事実でよく自分のことをおぼえてるなぁと思う。

2010年2月 7日 00:53 | コメント (0) | トラックバック

ロマネスク

三編からなっている。民話のように思われたのは、全ての編の冒頭が、“むかし〜”、と始まるからだが、やがてそれは民話という枠から大きくはみ出す。


神童のごとき主人公“太郎”の、神童たる所行の数々にも関わらず、父に絶望されるその境遇は、やはりどことなく太宰さんを想像させる。仙術をもってして、結果、間違った形で望みを叶えてしまう辺りも、自分を皮肉っているのではないか。


二人目の主人公、“次郎兵衛”については、“世の中はそろばんでない。価のないものこそ貴いのだ、と確信して毎日のように酒を呑んだ。”というところに、そして、喧嘩上手になりたいとして、何年もの歳月をかけて喧嘩の腕を磨いたにも関わらず、全く腕を振るう機会を与えられないという悲哀に、やはり皮肉を見る。


三人目の“三郎”が嘘のかたまりであることもそうだろう。


“三郎の嘘の火焔はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ〜”と続く最後の三郎が熱弁するくだりには、やけくそな、喚きの様なものがあり、その喚きがなんともまた悲しいのである。


私の街でも、居酒屋あたりで、そんな喚き声が聞こえてくるような気がする。太宰さんの作品を青春文学とする、その所以が見える。

2010年2月 6日 17:21 | コメント (2) | トラックバック

彼は昔の彼ならず

家を貸した男(大家)によって語られる、家を借りた男の話。家を借りた男が、まあほんと、ダメな男で、また太宰さん出てきちゃったよ、と思う。政治的な運動に参加し、住処を転々としていた頃のことが投影されているのではないかとぼんやり想像してみる。(「東京八景」より)


なんだかんだ言い逃れして、代わる代わる女と同棲して、小説を書くんだと大風呂敷を広げて、でも結局なにもなさず、延々家賃を払わない男。そんな男に苛立をおぼえつつも、どうしたわけか毎度許し、なにかを期待してしまう大家。そんな自分と、あのダメ男のなにが違うというのだ、と誰かに問いかけて、話は終わる。


バカか。と言いたくもなるが、どっちも太宰さんの分身なんだろうと思うと、じゃあしかたがない。全く違う、少なくともオレはね。と言い切れないところを突いてくるのがいやらしい。


ダメ男のダメ男っぷりには腹も立つが、自分がこれくらいダメだとどうなんだろうという、漠然とした好奇心もある。ダメ人間への憧れというのが、どこかしらにあるでしょう皆様だって。ま、迷惑千万、周りはたまったもんじゃない。今現在ですら、そこそこ周りは、たまったもんじゃないと思っている節もあるのに。


別に金はあったのに忘れてしまったり、それどころじゃないと無視したりして、結果とんっっでもない金額の家賃を滞納したことがある私は、現代においてはすでにじゅうぶんダメな部類であろうとも思う。ああ、その時の督促状を思い出すと寒気がする。そうか、ダメはちっともいいもんじゃないということは、とっくに知っていたわけだな私は。気をつけよう。

2010年2月 6日 03:21 | コメント (1) | トラックバック

猿面冠者

のっぴきならぬ状況に陥った主人公が、それを打開するために小説を書くことを決心するが、ちっとも書けない。というお話。冒頭から、こんなやつに小説が書けるわけがないとネチネチ書き連ねている。


太宰さんじゃん。まあ、遺書の一部なのだからそうか。書けない者の理屈が、自虐的な蔑みでもって描かれていて、私も一応作家の端くれなので個人的に身につまされた。


が、どうにもコメディのように思われるくだりが多く見られ、滑稽でもある。まさに猿面冠者。無様で笑える。本人も笑うしかなかったのではないかと考える。


一念発起して小説を書き始めるが遅々として進まぬ前半と、そんな主人公をそんな主人公たらしめた若かりし日の出来事が描かれる後半。その切り替えの切れのよさが気持ちよい。そして、実際に主人公が小説の中で描こうとしていたアイディアと、若かりし日の主人公を結びつけ、最後には巧みに着地してみせる。そういう気の効いた感じに持っていくところが、なんと言うか、潔くないと思う。もっと無惨なことにしてしまってもよかったような気がするのだがどうだろう。


どこまで行っても書けぬ主人公とは、やはりご自身のことだと思われるが、まあ結局のとこ書けてるわけだものね。


ただまあ、自意識の濃さをこれでもかと曝け出している点において、いいかげん見せられ続けているうちに、たいしたもんだという気分になってきたよ太宰さん。

2010年2月 6日 00:04 | コメント (0) | トラックバック

サンキュウ!

黒いインクの輝きの、出演者による、「公演を終えてコメント」がアップされました。


ぜひぜひご覧あれ!

2010年2月 5日 03:57 | コメント (0) | トラックバック

ところで

太宰以外のことも書かないと、なんだこのブログは、太宰さんのブログか、と勘違いされてしまいそうなので、久しぶりにここ最近のことを書き留めておく。


1月のブログに書いた通り、吸収する作業を行っている。太宰を読むのもまあその一環だ。さらにここ最近では、「劇団鹿殺し」さん、「FUKAIPRODUCE 羽衣」さん、「はえぎわ」さんと、立て続けに小劇場観劇に勤しんでいる。


それぞれの劇団さんに誰かしら関係者がいて、だから全く先入観無しに、とはいかないのだが、それでもここ最近なぜか疎遠になっていたり、公演自体は初見だったり、そういう公演ばかりが続いたので、刺激になってありがたい。


くしくも、三劇団とも劇中で歌を歌っていた。そうなると、劇中で歌を歌うことについて考えざるをえない。私も、ここ最近こそそういう仕掛けを頻繁に施してはいないが、かつては毎公演劇中で歌を歌ってもらっていたことがある。一番最近では「女々しくて」か。


演劇の中で歌を歌うことの意味について考えなければならない。だって、ただ歌が歌いたいなら、演劇なんてやってないで、バンドでも組んで、ライブハウスに出演すればいいのだ。どうぞ演劇畑から出て行ってください。競争相手が減れば楽というものです。


演劇という媒体の中で歌を歌うからには、ライブハウスでバンドが演奏するのとは、違うなにかをはらんでいるべきだろうと、今の私は考える。


それぞれの劇団さんが、歌を歌う意味について、真摯に取り組んでいる印象があった。それでもしっくり来ない場合もあった。なんだろうかと考えれば、やはり曲よりも詞であろうと思う。詞が届くか届かないか、そこが重要で、だって演劇の場合、曲に乗せて体を揺すり、フォウ!とか言えないのだ、たいていの場合。てことはメロディがどうであれじっくり聞かざるをえず、そうなると、詞のリズムやその意図、言葉の持つ力、役者個々の持つ声ヂカラを意識してしまうのだ。


曲のノリはよくても聞き取れないのではしかたがない、あるいはメロディにはめただけではこっちは納得しない、と敢えて言う。


いずれ私もまた劇中歌を導入するだろう。その時に自分がどういう心境で、劇中歌というものをどうとらえているかは正直わからないが、少なくとも今は、丁寧に思考を巡らせて、劇中歌を劇中歌たらしめようと考える。


そんな事を考えました。考えさせていただいて感謝です。


じゃ、太宰に戻ります。

2010年2月 5日 00:00 | コメント (5) | トラックバック

魚服記

悲しいお話だと思った。哀しいと言った方がよいか。


ちなみに、「かなしい」には、悲しい、哀しい、愛しい、と少なくとも三通りの書き方があるという。愛しいとは、なかなか意味深な表現だ。


少女の哀しみが、淡々と、しかしファンタジックに描かれていて、切なくて、そこが良い。


どうにもならない生き苦しさがあり、そこから逃避しようとしたところで、その人の領域というのはやはり決まっていて、そこから抜け出すことはできない。とやんわり突きつけられる。なんともやりきれない話だ。


しかしどこか優しい印象を受けるのは、少女の愛らしさを過剰にならぬよう、適度に表現しているからだろう。


やはり太宰さんは女が好きだったのだろうと思う。

2010年2月 4日 00:40 | コメント (2) | トラックバック

列車

太宰治という名で世に出た初めての作品が「列車」だそうだ。太宰さんの本名は、津島修治という。書き始めたのは「思い出」の方が先だが、出版されたのは「列車」が先ということだ。


短編である。


先に自伝的な作品を数点読んだためか、語り手である主人公が、太宰さん本人のように思えてきてしまう。実際、本人の体験がいくらか反映されているのではないか。それは主人公に限らず、作中に登場する汐田とテツのことなんかについてもだ。


主人公は結婚しているけど、この時点の太宰さんは結婚はしていなかったり、ちゃんとフィクションであるための設定も用意されてはいる。


全体に、憎まれ口とでも言おうか、なんともひねくれた言い回しが目につくが、その裏には男(自分)への叱責と、女への愛情があるように思われる。


冒頭、機関車の説明から入るそのスタイルは、「富嶽百景」の冒頭で富士山の頂角について語るところから入ったのと似たパターンに思える。なるほど、「列車」の時にはすでにそういうテクをお持ちだったということだ。

2010年2月 3日 01:19 | コメント (2) | トラックバック

思い出

「思い出」は、太宰さんの幼年期、少年期を書いた自伝小説だ。なるほど、すでにこの頃から “私” を書く人だったということか。


本人はまさに遺書として書いたのだという。こんな穢い子どももいましたという告白をもって、死のうとしていたのだ。が、書いてみたらそれ一編では納得できなくなってしまったそうで、その後もどんどんと作品を書き連ね、「晩年」という立派な作品集にまでなってしまった。死ぬ気だけどやる気。人は複雑だ。「東京八景」にその辺のことが書かれていた。先に読んどいてほんとによかった。


「思い出」は三章構成になっている。一章では叔母や両親兄妹、女中らのことなど、自分以外のことが多く描かれている。とはいえ、やはり太宰さんのダメ臭さはじゅうぶん漂っている。いるのだが、それはまあ幼いガキのことだ、いいとして次。二章、中学にあがった主人公のことがこれでもかと描かれているのだが、その自意識の固まりっぷりが、オエッとなる気持ち悪さで、その胸くその悪い感じが、とくに私にはよかった。オエッとはなるが、わからないでもないとも思い、そう思ってしまう自分にも若干オエッとなるのだ。


「役に立たないオマエ」という自分の作品を思い出した。アレも自分の高校時代のオエッとなる部分を、まあ多くは滑稽なものとしてだが、恥ずかしげもなく書き連ねた作品だったからだ。三章の、女中のことを想い、人知れずのたうち回り季節が過ぎていく様も、「役に立たないオマエ」を彷彿とさせる。


三章では他に、葡萄狩りの場面が、なぜだかとくに映像として脳裏に具体的に浮かんだ。いい場面なのだろうか。なのだろうな。


あとどうでもいいが、当時の中学生もオナニーとかするんだなぁと、そりゃあ太宰さんも男だ、なにかしらするんだろうが、なんせ時代を超えた共感をおぼえた。どうでもいいが。


それから冒頭、叔母の話から始まり、最後にもう一度、忘れた頃に叔母のことに触れる。その構成が、いい具合のところに着地してくれたかのような感じが、上手いね、と思わせる。


これをもって遺書としようとしたのか・・・、と考える。どう考えたかを書き始めると長くなるし、考えたというよりは、まだ、考えたいなにかがある、という程度なので、その作業は二読目のこととしようと思う。「東京八景」同様、太宰さんご本人のことを考えるために、何度も読むことになるのだろう作品ということだ。

2010年2月 2日 23:25 | コメント (2) | トラックバック

新潮文庫版「走れメロス」を読み終わり、続いて、新潮文庫版「晩年」に着手。


「走れメロス」には、主に、絶望から立ち直り始め、やがて生活が順調に回り始める頃の太宰さんの作品が収録されていた。ので、推察だが、本人も幾分穏やかな心境だったのではないか、初心者にも読みやすく思える作品が多くあるように思えた。また、「東京八景」が収録されていたおかげで、上京後の太宰さんの堕落した生き様を、大雑把ではあるが知ることができた。といった理由で、最初に「走れメロス」を選んだのは正解だったかもしれない。


で、次に読むのは、太宰さんの処女作品集である「晩年」だ。「東京八景」によって知った太宰さんの生涯前半の流れを、作品に沿ってさらに追っていこうというわけだ。


自殺を前提に、遺書のつもりで書き始めたのが、自身初の作品集、「晩年」だそうだ。遺書が作家としての出発点というのが、まだ太宰さんをよく知らない私にも、なんとなく太宰的だなぁと思わせる。


実際には、同じく新潮文庫から、「地図 初期作品集」というのも出ていて、そこには「晩年」よりさらに以前のものも収録されているのかもしれないが、その辺はまだよく知らない。そこはおいおい知っていくこととし、やはりここは処女作品集だ。


今回は収録順ではなく、巻末の解説と照らし合わせ、発表時期の早いものから読んでいくこととする。と思ったのだが、最初に収録されている「葉」という作品が、発表時期は他のものより遅いのだが、「晩年」以前に書いた初期作品群の中から、捨てがたいフラグメント(断片)を選び出して配列したものだと解説に書かれていたので、「葉」から読み始めることとした。


で、「葉」だが。


断片の配列だ、という前知識があったから戸惑わずにすんだが、なにも知らずに読み始めたらなんのことだかわからないだろう、まさに断片の配列だった。合間合間に挟まれる一行程度の断片は、とりわけなんのことだかわからなかったりするが、ある程度のボリュームで提示される断片については、すんなり読める。わけがわからないものだと思って読めば、全体も楽しめる。深く感じ入る、とまではいかなかったが、その印象は読む度に変る気もする。


考えるのは、わけのわからないものを公にする作家の強さか。あるいは鈍感なのか。批評の目にさらされるという点では演劇も文学もなんら変わらないが、演劇でわけのわからないものを作る時のリスクは、主に経済的な面でデカい。多くの人を巻き込んでしまう。その点、小説は作家一人のものだし、まあ出版社に迷惑をかける可能性はあるだろうが、「葉」が掲載されたのは同人誌だそうだし、だから幾分軽やかにできたのだろうとも思う。知らないで言っている、そんな軽やかでもないとしたらごめんなさい。


まあ、太宰さんに限っては、いずれ死ぬつもりだったのだから、リスクもへったくれも無かったのかもしれないが。


死ぬ気がなくとも、経済的・評判的にどうであろうとも、よその人が見てもよくわからない自分だけのお気に入りをドーンと見栄きってお見せできる面の皮の厚さが、ありたいものだと思ったという話です。 

2010年2月 1日 23:13 | コメント (3) | トラックバック