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帰去来/故郷

「帰去来」と「故郷」は、連作のような体になっている。


「帰去来」では、太宰さんがこどもの頃から世話になり続けている、北さんと中畑さんにまつわるエピソードが綴られていて、特に後半では、北さんに連れられて10年振りに故郷に帰るという、太宰さんにとっての一大イベントのことが語られている。


「故郷」では、「帰去来」の翌年、太宰の母が危篤ということで、再び北さんらと故郷へ帰った時のことが描かれている。しみじみと、甘く切ない。そもそも連作のようにするつもりは無かったのかもしれない。


ある程度売れてからの太宰さんの話だ。生活に余裕があると、攻撃性はなりを潜め、どこかセンチメンタルになるのだろうか、また、大切な知人のことを書いているからだろうか、全体にやぁんわりしている。


また、他の作家さんをたくさん知っているわけではないから極端なことは言えないが、やっぱり、自分のことを書きたい人だなぁと思う。北さんと中畑さんはこういう人だ、そして私はダメだ。と、私に辿り着く。


しかたのない人だなぁと思う。

2010年1月30日 16:04 | コメント (5) | トラックバック

東京八景

太宰さんご自身の、上京してからおよそ10年のダメっぷりが描かれている。漠然と抱いていた太宰さんのダメっぷりの一部が、ようやく具体的に知れた。そういう意味で大変ありがたい作品だ。


でまあ、ありがたいが、出来事自体は全て事実としても、どこか全体に太宰さんのテクニックが働いているような気がして、まんま受け止める気はないぞ、とも思わせる。なんだろうね、ナルシストというかね。


何度も自殺を繰り返し、女も手放し、借金まみれ、世間からも見放された太宰さんが、


“何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。”


らしいのだが、その理由を幾つか挙げているうちの一つに思わずにやついた。


“下宿の一室に、死ぬる気魄も失って寝転んでいる間に、私のからだが不思議にめきめき頑健になって来た“


のだそうだ。寝てたら元気になっちゃったとは。なんとも間抜けな話ではないか。


そこが、なんともバカらしく、素晴らしいと思った。

2010年1月29日 18:20 | コメント (2) | トラックバック

走れメロス

ようやく「走れメロス」だ。こんなんだったっけか、「走れメロス」。読んで思うのはやはり、メロスはバカなのか、ということである。


激怒したはいいが、そんな、その勢いで乗り込んでっても捕まるに決まっているじゃないか。友達に会いにいくのではなかったのか。で捕まって王と言い争いになり、さんざっぱら王を挑発しておいて、だけど時間をくれろと願う時には突然丁寧語になる。で、あろうことか会うはずだった友達を勝手に人質に差し出し、約束を破ったらその友達を絞め殺せと、殺し方まで指定済みだ。


なんか、その後のアレを読めば確かにいいお話ではあるのだろうが、なんせバカなんじゃないか?という疑念がつきまとって、なかなかまともに受け止められない。“そうです。帰ってくるのです。”という響きが、“そうです。変なおじさんです。”を想起させるのは、私のせいじゃない、メロスのせいだ。


友の元へ戻る途中、持ち前の呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出すそれは、まぎれもない、バカのなせるわざではないか。ぶらぶら歩いて2、3里とは、どんな呑気さだ。ちなみに1里がだいたい4キロだ。で、川を泳いで渡った後には、一刻といえどもむだには出来ない、と思っている(じゃ最初から走っとけ)。で必死で走って盗賊をかわして走れなくなって、あきらめて、友よ一緒に死ぬぞと思ったのもつかの間、生き伸びてやろうかと思ったり(どっちなんだよ)。で、あろうことかまどろみかけたら、足元で水が湧き出ていることに気づき(気づけ)、その水飲んだら元気になっちゃったよ、おいおい。で、酒宴の人々を驚かせたり犬蹴っ飛ばしたり、あげく全裸で(なぜ?)、夕闇が迫る中、走りながら友人セリヌンティウスの弟子のフィロストラトスとやりとりし(このタイミングでこの名前)、間に合い、めでたしめでたし。


と、書き連ねてみると、歩いちゃうとことか、突然がんばってみようと思うとことか、なんか心当たりがあって、頬が赤らむ思いになる。台本を書く時の、締め切りに追われる私となにが違うというのか。私の中にも小さなメロスがいるということか。私もバカということか。書き終わった頃には全裸だということか。うん、ある意味全裸だ。少なからず納得できる気がしてきた。


ちゃんと考えると、バカだと思わせるのはその文体によるところが大きいと思う。簡潔に力強く言い切ろうとする文体が、メロスを短絡的に思わせる。これまでに読んだ他の太宰作品とは、そこが違う気がする。ただ、最初こそ古代ギリシャっぽいが、途中はなんというか、日本の民話っぽい。のはなんでだろう。おいおい二読目に入る。その時に考えよう。

2010年1月29日 14:07 | コメント (2) | トラックバック

駈込み訴え

現在はともかく、当時の市井の人々がどれくらい聖書や福音書の内容を知っていたのかわからないが、多少でも知っていた方が面白いのではないかと思う作品だ。


私は少々知っていたので、とても楽しめた。オチで主人公がようやく名前を名乗ったのに、その人のことを知らなかったとしたら、“うん。で?誰?”となって、“あうん、だから、あの、そう言うくだりがあってぇ、”と説明を続けねばならない。大変だ。大丈夫だったのか。


そんな心配は余計なお世話だろう。その辺の知識がなくとも、充分面白い。


「黒いインクの輝き」で、“世界が終わるとして最後に食べたい物ってなんですか?”という質問が投げかけられ、それについてくだらないやり取りが繰り返される、というくだりがあるのだが、そのシーンは、ダヴィンチの「最後の晩餐」という絵と、その言葉からイメージしたものを私なりに今回の作品の空気に落としこんで描いたシーンだ。


“おまえたちのうちの、一人が、私を売る”と言うキリスト。慌てふためく弟子たちは、“私ですか?私のことですか?”と騒ぎ立てる。キリストの真意はわからない。


野木塚が消えたことの真意は誰にもわからない。世界は今終わろうとしている。新キャラはダヴィンチ。他にもいろいろ端々に散りばめてみたが、いかがだったか。


いや、そんなことはどうでもいい。


主人公が、キリストと生まれた年が同じことを何度も気にするのが印象的。あと、マルタ奴の妹のマリヤがキリストに油をぶっかけたエピソードを語る主人公の、その混乱ぷりがとてもいい。何度も“わからなくなりました”というのがいい。わからなさが極っまている人というのは、申し訳ないが魅力的だ。異常なまでの愛憎ないまぜの感情。複雑でわけがわからない。が、そのわけのわからなさは、なんか、とてもわかる。気持ちのうねりの、憎悪から愛、そして憤怒、そのスピード感も簡潔でいい。


主人公が、ひどく矮小な人物として描かれているようにも思われるが、作者がそんな主人公に肩入れしているようにも思われ、だからだろうか、私も肩入れしたい気持ちになったのだった。

2010年1月29日 08:00 | コメント (3) | トラックバック

女生徒

とある女学生の、朝起きてから寝るまでの間のことが書かれている。


序盤、ところどころに現れる、“身悶えしちゃう。”といった、“ちゃう。”といった、女性ならではとおぼしき言い回しが鼻につき、作者はふざけているのかと思ったら、読み進めるうちに思いのほか真剣であることがわかり、妙な気持ちになる。“しょげちゃった。”とか。“朝は、意地悪。”とか。


当時はそういうのが生々しい表現だったということか。


先日まで「黒いインクの輝き」という作品で、女性心理のことをネチネチと書き連ねた私だが、女性を描く際に気をつけたのは、女言葉にしないことだった。こちらがそこを装飾してしまうと、それは机上の女性にしかならない気がしていたからだ。オカマ的というか。男が脚本を書いているという前提を、どうしたって皆さん意識した上でご覧になるはずだし。どうしても女言葉の方がよければ、稽古場でそうすればよろしい。


「女生徒」では、掃除のまえに“お”をつけたり、とても女らしい。女らしさが前に出てくると、それを操縦している後ろの男の影がよりいっそう気にかかる。なので、どこかオカマ的に思うのだった。が、当時の女の人は、それくらい女らしくあったということかもしれないので、文句はない。あるいは、角度によってはかわいくも見えるが、まあ中の下、あるいは下の上、くらいのルックスだと思えば、けっこう楽しめる。


10代の女性の孤独や不安が、ちょうど良い案配で、なめらかぁに描かれていた。父の存在や母の存在はやはり重要だ。終盤の母とのやり取りが好きだ。


ラスト2行は無くして、“おやすみなさい”だけにした方が、女生徒がふっと眠りに落ち、我々の前からも消えたような感覚を受け、寂しいという感情を読者も無意識に実感できたのではないかとも思うのだが、いかがか。父を失った主人公の感覚だ。


もちろん、ラスト2行があった方が、女生徒の切なさというか寂しさというか、そういうのがわかりやすく伝わるとは思うが。自分をシンデレラ姫とかぬかしやがって、と思ってしまうのだ私の場合。下の上、くらいで想像しちゃったから、余計。あ、言葉遣いが移っちゃった。


「富嶽百景」と同年、数ヶ月後に発表されているようだから、このラストのさじ加減にも、「ダス・ゲマイネ」の頃とは少々違う、穏やかで優しげな太宰さんが反映されているのかもしれない。

2010年1月29日 00:05 | コメント (1) | トラックバック

富嶽百景

申し訳ないことに、私は太宰治について、漠然とした、浅薄なイメージしか持ち合わせていない。


自殺した人。何回か自殺した人。女の人と一緒に自殺した人。けっこう自分のことを書きがちな人。タイトルに「人間失格」とかつけちゃう人。


そんな感じ。


今はいい。段々具体的になっていけばいいと思っているのだが、そんな浅はかな先入観をもって「富嶽百景」を読むと、太宰さん、なんかちょっとかわいげがあるねと、これまでと違ったイメージを抱かされる。そこが初見の小さな驚き。


「富嶽百景」には、太宰さん本人のことが描かれている。これはイメージ通り。


富士山批判から入るその語り口は、初心者が勝手に抱いている“めんどくさそうな太宰さん”像そのもののようであり、なるほど待ってましたとなる。で、便所の中に立ちつくして、金網撫でながらじめじめ泣いて、のくだりを読めば、ほらほら、なんかねっちょりしてんぞ、太宰だぞ、と勝手な太宰像がムクムクッと膨れ上がってくるのだが、それ以降、そんな感じの太宰さんは出てこない。


細かく見ていけば、めんどくさい人だとは思うし、ねっちょりもしてんだろうが、それよりもなんと言うか、時が経つにつれ作品全体も太宰さんも、どんどん優しく、どんどん爽やかな気配に包まれていくのだ。


天下茶屋と、周辺の町での人々との交流にはいやらしさがなく、慎ましく、ささやかに優しい。それがなんか、よかったね太宰さん、と思わせる。最後の小さな悪戯も、微笑ましく思える。読後感もいい。この先の太宰さんに、いいことがありそうな感じがするのだ。


これ、先入観があるからよけいにそう感じたようにと思うのだが、太宰さんのことをまーったく知らずに読んでも、この感覚はあるのだろうか。


巻末の解説によれば、“夫人との結婚後第一作で、再出発への気魄にみちている” んだそうだ。なるほど、言われればそんな感じがする。ずっとこんな感じだったら良かったんだろうが、この後、日本は太平洋戦争に突入したりするし、他の女の人とも出会っちゃうので、なかなかそうもいかなかったんだろう。


なんせとても素直に書かれたのであろう、こちらにも素直に言葉が、情景が届いた。だからきっと、太宰さんのこと知らなくても、感じるなにかがあるはずだ。太宰さんと思わず、ただグズグズしたどっかのだれかの話だと思っても、なかなかに読めると思います。富士山の近くの山にこもって何ヶ月もグズグズしていられるなんて、なんと贅沢な、とも思いますが。


ちなみに私の富士山は、東京出てきてすぐ、だから20代前半、デパートで早朝バイトしてて、真冬、快晴の日に屋上に出たら、富士山がくっきり見えて、見つけた瞬間、「うお!すげえ!」って叫んで、思わず拝んだ、そんな富士山だ。西方に生まれた日本人に富士山は未知の山だ。ケチつける余裕は当時の私にはありませんでした。


2010年1月28日 18:14 | コメント (2) | トラックバック

満願

なんか、スケベイだなぁと思った。


思う私がスケベイなのかなぁ。

2010年1月28日 10:25 | コメント (5) | トラックバック

ダス・ゲマイネ

宣言。「これから読む太宰の作品について、逐一ここに書き記していくこととする」。


ほんっとうに太宰を読んだことが無い私なので、なにから読めばいいかすらわからない。というわけで、本屋へ行き、太宰の名が並んでいる棚を眺め、新潮文庫から出ている「走れメロス」を手に取った。


さすがに私でも「走れメロス」くらいは知っている。知っているが読んだことはない。いや、教科書に載るくらいだ、読んだのかもしれないが、メロスが走って戻ってくんだろ?ということしか知らないので、「走れメロス」ですら一から読み直さなければならない私なのだ。よし、まずは「走れメロス」だ。そう思って購入し、表紙をめくると「走れメロス」ではなかった。「ダス・ゲマイネ」というタイトル。「ダス・ゲマイネ」だ?目次を見る。「走れメロス」は真ん中へんにあった。「走れメロス」以外にもたくさん収録されているのだった。中身くらい確認しろ、とか言うな。


で、なるべくなにも考えずにまずはただ読む、と考えていた私は、とにかく与えられた順に読むこととし、だから「走れメロス」に収録されている最初の一編、「ダス・ゲマイネ」を読むことにした。これが私の太宰始だ。


幸運なのか、はたまた不幸か、生涯初めて自らの意志で読んだ太宰作品が、「へえ、面白いね。」と思えるものだったことは、今後他の作品を読み進めていく上で重要なことのように思う。


これ、この調子で他のも全部面白かったら、あんまり『Do!太宰』やる意味ないなあ、とか思うけど大丈夫だろうか。ま、いいんだけど、面白くて。


非常に浅ぁい感想でお恥ずかしい限りだが、書く。


初心者としては、太宰本人が登場するといったサービスがありがたい。深い読み取り方は今のところ無い。ただ、主人公とは別に太宰本人が出てくるという仕掛けが嬉しかった。そんな仕掛けを私は、サービスと取る。だって、太宰出てきちゃったよ、と思うだけでちょっと気持ちがオロロッと、フワワッと、するじゃないか。これはもう、サービスだ。


また、女の話かと思いきや馬場の話だったり、馬場の話かと思いきや雑誌の話だったり、佐竹の話かと思いきや馬場の話だったり、馬場と太宰の話だったり、なんだじゃあ馬場の話か、と思えばいややはり主人公の話だったりする、その構成も、「なんだよ、で、なんの話なんだよ。」と思わせ続けてくれ、で結果最後までスッススッス読めたんだから、大成功だよ太宰さん、だ。ただもう、馬場馬場馬場馬場馬場・・・、馬場という名が出てくる度に、ブルの馬場の顔が浮かぶので、少々、読み方を誤る危険があった。いや、馬場も太宰も悪くない、悪いのは私だ。


最後の着地も。読み終わった私に「うむ。」と思わせる着地でなによりだった。何様のつもりだ。


でも私、よくラスト前でケムにまかれることがあるんですね。ラスト前が重要だった。なのに。ラスト前をもう少し感じたい。それは太宰さんの問題ではなく、こっち、私のアンテナの問題というか、テンポだけで読んじゃったんだと思う私が。


というわけで、さっそくラスト前を読み返した。一読目よりたくさん言葉を拾えた。あらためて「うむ。」と思った。何様のつもりだ。


総じて、女々しいのう、と思ったが、それこそ期待していた感触なので、一読目としては満足。


こんな感じで書き記していく。浅くてすまないが、そんなもんだ、ご容赦いただきたい。なんせこれまでちっとも読む気がしなかったのだ。ジョギングだって最初から無理はいけない。

2010年1月28日 00:00 | コメント (4) | トラックバック

今年一番

ひとまず例の締め切りはなんとかクリアし、今日は一日、ほんのり穏やかに過ごす。


炒り卵に黒こしょうとマヨネーズぶっ込んでレタスと一緒にトーストに乗せて食べたら超〜ナイスでした。8枚切りがいい。熱いコーヒーとジャストナウ(間違った使い方)!


カップ一杯分だけを作ってくれる、きゃわいいコーヒーメーカーが昨年末にうちに現れてから、一日のコーヒー度数がグンと跳ね上がっています。外でもコーヒーだから。


あとはなんだ、シーツ洗ったりしたか。な!!なんだこれは!!今年一番の穏やかさだ!!


まあしかし家事ばかりですますわけにもいかず、やらねばならない諸々のうち、どれからやっつけるか思案して、今日は太宰を読むと決断。


感想はのちほど。

2010年1月27日 00:00 | コメント (3) | トラックバック

稽古をしていたあの頃のこと

PCのデスクトップにほったらかしになっていた写真をここに掲載し、片づけることにする。たしか「インク〜」の稽古を初めて、2、3日目のことではなかったか。もう記憶は、ぼぼんぼんぼんぼんやりぼんぼんだ。


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私だ。残念ながらこれが私だ。


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岡山だ。残念ながらこれが岡山だ。


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山口だ。ぶれて残念だが、なんかピカーッとしてて、ありがたい感じの山口だ。


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津留崎だ。やはりピカーッとぶれてて残念だが、これはまぎれもなく津留崎だ。


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オバマさんだ。これはまぎれもなくオバマさんだ。あと西山だ。


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猪爪だ。そしてオバマさんだ。


以上。約一ヶ月後、瀕死の状態で稽古場にいることになろうとは思ってもみないブルの連中と、支持率が下がるとは思ってもみないオバマさんの姿。

2010年1月26日 00:00 | コメント (4) | トラックバック

流れは変った

藁にもすがる、というわけではないが、作業する場所を変えてみた。昨日までの店に比べるとだいぶこじゃれた雰囲気の店だが、ここもまた混み具合がちょうどよい。喫煙エリアの空気が淀まないのもいい。「インク〜」の執筆時に発見したので、これから使用頻度が増えるかもしれない店だ。で場所を変えてみましたところ、


なんかちょっと集中力が増しました。


バカな、と思われよう。いいじゃないか。自分がそう感じたんだから。


まだいくつかのグレーゾーンは残っていると感じているものの、昨日までの遅々として進まない状況からは脱却した。と思う。ようし、ここからここから!進むぞぅ!と盛り上がってきた所に水を差すようで恐縮だけど、締め切りは日付的に今日なんだけど大丈夫?オレ。


ぎゃあああす!!!


ファイト。

2010年1月25日 02:02 | コメント (1) | トラックバック

思考をずらしていく

机の上を片づける。これだけでずいぶん「まともな生活を送っている感」が与えられる。今も片づいた机で清々しく書いている。昨日までは膝の上で書いていた。申し訳ない、膝の上だったのだ昨日までのは。


散らかっていたものの多くは領収書の類いだ。そしたら今日、ポストに確定申告の書類が放り込まれていた。ナイス。ナイスタイミング税金の神様。いつでも確定申告しろと。毎年ギリギリになる私ですが、今年は違いますぞ神様。なんせもう領収書は片づいているのです。あとは、書類をチョチョーッとアレすればいいだけです。そのチョチョーが果てしなく辛いです神様。


領収書の話しに戻るが、ん?なに買った?と、一見では思い出せない領収書があることが大きな問題だ。それが2、3万もするものだったりするから、とんでもない。私はいったいなにに2、3万円も払い、それによっていったいなにを得たのか。その実感が今この瞬間無いことの虚無感と失望。その時はきっと楽しかったのだろう私だ。領収書をもらう余裕もあったくらいなのだ、楽しく、かつ冷静だったはずなのだ。が、今、その時の感覚は思い出せない。店名を見る。知らない店だ。残念ながら「品代」となっているので手がかりは少ない。ダメだろ「品代」じゃ。


まあいい。なんせ片づいたことが大事だ。いい。この勢いで、日々、一カ所ずつ年を越していくことにする。


今日も、昨日書いた「自称レストラン」で作業。土曜日の駅前でも適度な混み具合。素晴らしい。昼過ぎに訪れ、アイスコーヒーだけではもたず、追加でアイスカフェオレも頼んで閉店ギリギリまで居座らせていただいた。利尿作用がすごい。で精算をすませる時、オーナーらしき初老の男性に声をかけられた。「いつもありがとうございまぁす。」


確かに昨日、あと一、二回で顔見知りと書いたが、よもや今日とは。読んでらっしゃるのか?このブログ。


で話はいろいろ飛んで申し訳ないが、その作業というやつがなかなかに進まない。そのことにまつわる思考のあれこれを具体的にここで書き連ねられたら少々楽になるのだろうが、そうはいかない。黙々と作業するしかないので残念だ。


ブルで脚本を書く時、その時間の多くが感覚を巡らせる時間で、結果的に「あ、なんか計算したみたいに上手くつながった」となることはあっても、計算づくでどうこうした、ということはほとんど無い。今取りかかっているそれはその逆で、というのもお仕事だからしかたがないのだが、自分の感覚とは違うものを具体的な形にせねばならず、必然的に論理的な思考を求められ、というか結果的にそうなっていて、で、そればっかりだと楽しくないのだなぁ、という話だ。


楽しむことが大事だ、なんてことはもう今さら書く気にもならないアレだが、考えるのは、じゃあどうすれば楽しめるかという、思考のずらしだ。なにかが凝り固まっている。そこをすっとずらせば楽になりそうなので、いったんPCを離れ、なんでもノートに立ち戻ってみる。作業の方法を変えてみればどうにかなったりすることも、あったりなかったりだ。


とはいえ今日はもう深夜だ。夜は作業しない。明日に続く。

2010年1月24日 01:34 | コメント (1) | トラックバック

距離の話

最近、PC作業をする際に頻繁に使わせていただいている、なんだ、喫茶店なのかここは。壁にはレストランと書かれているからレストランか。え、レストランだったのここ?!レスト・・・ラン・・・か。


なんせとある商業施設の一角で、主にじいさんばあさんを対象にひーっそりと営まれているお店を、ここ最近よく利用させていただいているのだが、そこでもいよいよ面が割れてきてしまったのだが、どうしよう、という話だ。


いや、面が割れようが股が割れようが、私は書かなければならないのであって、家では自堕落すぎて書けないのだから、四の五の言わずにとにかく通えよその店に。という話なのだが、しかしあの、入った瞬間の顔はもう覚えたけど実際はなんにも知らないという、会釈の角度すら一考してしまう、あの空気に耐えるのはなかなかに骨が折れるのだ。


まだファミレスは良かった。なんせ忙しなく回転している。店の従業員の方々も、私一人にかかずらわってる場合ではないと、颯爽と店内を駆け回っている。私は、自分が昨日も一昨日もドリンクバーで何時間も粘った残念な種類の客だということを忘れ、作業に没頭できた。


しかし今、この店の店内には私一人しかおらず、逆に店員さんは三人もいる。


店員さんは特になにをするでもなく、すぐそこにいる。鼻息も聞こえる距離で宙を見つめている。なにか注文すべきか。いや、先ほどアイスコーヒーを頼んだばかりだ、たっぷりある。これ以上なにを頼めばいいというのか。しかし、今、三人もの店員さんの命運を握っているのは私なのではないか、と考えると、なにか注文して差し上げるべきなのではないかと、余計な思考が頭を巡る。作業どころではない。ちなみにハンバーグが普通にうまい。いや、そんなことはいい。


「微妙な距離」の話しだ。この距離に耐えることが大人なのではないかと思う私なのだ。むしろ骨が折れるくらいがちょうどいいのではないか。互いに「やっほほーい」などと挨拶をする関係、傍目に見ても不愉快なのだ。やはり私はコーヒー一杯で何時間でも粘る所存だ。ごめんなさい、三人もの店員さん。

おそらくあと一、二回で完全に顔見知りのレベルになる。それでもまだ、したのかしてないのかよくわからない程度の会釈にとどめ、それ以上互いに踏み込まない、そんな距離を保ち続けよう。大人の距離だ。そうすればまだしばらくこの店にいられる気がする。居心地が良くなればなるほど、私はきっとそこで自堕落を覚えてしまうのだ。それは、どんな仕事にも、劇団にですら当てはまる話だ。


野良猫か、オレは。

2010年1月23日 00:01 | コメント (3) | トラックバック

欲ばりな季節

多少片付く。部屋が歩きやすくなった。自分の部屋なのに。日々、少しずつ年を越していくのだ。


昨日は、シアタートラムにて、快快の「インコは黒猫を探す」を初鑑賞。面白い。ダンスとセリフと映像と、いろんなものが混然一体で、意味はわからないけど、面白いなぁということは私でもわかります。同じ事務所の後輩の田村健太郎と、ブルにも数度出演してくれている黒木絵美花が出ていて、特に黒木さんはもともとバレーをやっていたので(役に立たないオマエのオープニングでも少し踊っていただいております)、ざっくりした言い方で申し訳ないがパフォーミングアーツの分野に関わると、なかなか強い。タムケンも相変わらず細かったが元気そうでなにより。むしろナイロンの稽古場で一緒だった頃よりたった10分そこそこなのに、いっぱい話した気がする。そういった知り合いの近況が知れることももちろんだが、話題の快快をやっと自分の目で見れたこと、で刺激をいただいたことに満足。


いろんなものを観に行きたいと思う。「リンダ〜」、「インク〜」、と吐き出し続けてきたので吸収欲があるのだろう。ブルの小島も客演中。すでに幕はあいているはずだが、調子はどうなんだろうか。昨年は美術方面もロートレック展など、観ておきたかったものをいくつか逃しているので、今年はアンテナを高めに立てておきたい。お知り合いの皆様、これ注目よ、というものがあったら教えてください。


仕事もしなければならないのだけどね。太宰も読まなければならないのだけどね。

2010年1月22日 15:41 | コメント (1) | トラックバック

そろそろ越そうか

とある打合せで新宿へ。


「黒いインクの輝き」が終わってまだ二日だが、早くも脳内を別の状態に置き換えなければならない。世の中にはきっとそうやって次々になにかを創作して生きている(メシを食っている)方が大勢いらっしゃるのでしょうが、どうなっているのですか、その脳内は。


部屋の散らかりをどうにかする気もまだ起きていないというのに、あれをこーしてこれをあーしてと、脳内作業は大忙し。


いいことですけれどもね。がんばります。


帰りに新宿駅付近の店で、安くしても残ってしまう、なにかがダメなのだろう洋服をチラ見する。そういうどうううううでもいいことを、少なくとも3ヶ月はしてなかったので、その普通さになんかホッとする。あとコンビニで立ち読みしたり。肩凝った。


どうでもいいことをすると、どうでもよくないことをする気にもなってくる。というわけで「太宰」の準備も始まった。あとはなんだ、部屋の掃除と初詣か。


まだ年を越しきってないということか。

2010年1月20日 22:37 | コメント (3) | トラックバック

さらば、そして次へ

「黒いインクの輝き」が、全日程を無事終了いたしました。


ご来場いただいた皆様、まことにありがとうございました。応援してくださった皆様も。あと皆様も。みーんなさま。


書かねばならないことはいろいろありまして、いや、書かなくてもいいことなのかもしれませんが、しかしその内容を最後に締めるならきっと「ありがとうございました」という言葉だと想像しますので、今はとにかく全方位へ向かってありがとうございました、とだけ。


ひどく拙い部分がありました。喜ばしい部分もありました。いずれにしろ、二度と味わえない空気が劇場にも稽古場にも、もう、そこかしこにありました。学ばなければならないことが多々あり、大事にしていかなければならないことが多々ありました。さらに成長しなければなりません人として作家として。


てなことを思いつつ、先へ進みます。さらば、愛しい女たちとブサイクとイケメン。


たくさんの方に面白かった旨の感想をいただきました。かつて、10年前、今回と同じようにいろんなものを曖昧にとどめ、なにを言わんとしているのかをぼかし、お客様にささやかーに喧嘩を売ってた頃がありました。その頃は、お客様から面白かったとはなかなか言っていただけませんでした。10年前、1:9だった賛否が、今回で少しは変ったのかもしれないと思うと、ええ、ごめんなさい、今だけでもほんのちょっとホッとさせてください。ささやかーに喧嘩売っといてなんですが。


ありがとうございました。5月、新緑の頃にまた。また違った変なものを作ります。

2010年1月19日 12:58 | コメント (4) | トラックバック

果たして次の女々しさは

いよいよ千秋楽です。


たくさんの感想をいただいております。ありがとうございます!


例えば、前回の「女々しくて」の方がよかったという方がいらっしゃいます。今回の「インク」の方が深かったとおっしゃる方がいらっしゃいます。「ケモノミチ」より「インク」が好きなんて奇特な、でもたぶん早めに僕と友達になれるタイプの方もいらっしゃいます。


言葉は悪いですが、


してやったり。


と思っております。劇団公演です。身銭切ってやってんだもん、その時どきの素直な衝動を反映させていただきたいと思っておりまして、それが、「女々しくて」のタイミングで僕とシンクロした方もいらっしゃれば、「インク」でシンクロした方もいらっしゃる。それってなんだか、健全だなぁと思うのです。いつもいつもお気に入られるって、なんか、その作家が転がってない気がしてしまうのです。気に入られようがいられまいが、転がり続ける所存なのです。


二度と「インク」と同じタイプの作品を作るつもりはありません。だからこの先も、お気に召さない時や、お気に召しまくる時があるでしょう、だからほんとごめんなさい、どうか毎回観てください。

一回観逃すと、ご自身に取ってど真ん中の作品になるかもしれない瞬間を逃すかもしれませんので。


次に作る女々しくてシリーズは、間違いなく「女々しくて」とも「黒いインクの輝き」とも違う、また別の女々しくてです。


女性の皆様、どうか僕の前でいろんなものをダダ漏らしてください。糧とさせていただきます。


そして次は男たちの男たちによる、愚鈍な男たちの物語をお届けする予定。ある意味、ほんとの女々しくてです。さあ、皆さんご一緒に、Do!太宰!

2010年1月18日 01:20 | コメント (2) | トラックバック

おくればせながら

年賀状、ありがとうございました。事務所に届いていたものを今日全て受け取りました。


今年もよろしくお願いしますね、ほんと。


劇場でも、お手紙やら差し入れやらたくさんいただいていて、おっさん超感激です。開けたらサボテン入っててびっくりしたり。感謝です。


休み明けで全体的に軽やかに。逆に若干流れすぎの所もあり、その辺の調節が難しいのは、どこのどんな作品でも同じ?こんなにあーだこーだ考えねばならないのはなんなのかね。もう少しわかりやすいものが作れれば楽になるのでしょうか。いや、楽になることを考えてはいけないのです。楽なものなど無いのです。


感想を伺いたかった方々にご覧いただき、いくつかのアドバイスと面白かった旨の感想をいただき、ホッと胸を撫で下ろしてまた明日。


千秋楽のカーテンコールが終わるまで、試行錯誤はずっとずっと。

2010年1月14日 00:02 | コメント (4) | トラックバック

休演日を終えて

あけて水曜日。


昨日は休演日。やらなければならなかったいくつかの仕事を済ましたら、あとはひたすら寝た。寝まくった。よくもまあこんなに眠れるもんだと思うが、眠れるのだ、いいじゃないか。


それで疲れが取れて全快かと言えば、別にそんなわけでもないから困ったものだが、なんせあと5日だ。一区切りついたおかげで、もう一回踏ん張れる気力は沸々と湧いてきている。


ぜひご覧いただきたい。よくわからなかったという方は、できたら二度三度とご覧いただきたい、申し訳ないけど。見る度に見えるものが変り、見る度に感じ方が変るようにと思って作っています。終盤の一連のシーンも、ご覧になる方によっていくつも解釈ができると思います。
そんな楽しみ方があっていいと思います。


終演後、怖かった、楽しかった、悲しかった、好きになった、いろんな感想が聞けることが、大いなる手応えになっています。ぜひご感想もお聞かせください。


お待ちしております。

2010年1月13日 12:19 | コメント (4) | トラックバック

無事に

初日が終わりました。二日目の朝と言うか、昼です。さすがに寝ました。腰が痛くなりました。


ストレッチをして劇場へ。


ひとまず幕はあきましたが、まだまだやることは山積みです。大変です。


皆様のご来場をお待ちしております。

2010年1月 8日 13:38 | コメント (6) | トラックバック

謹んでご挨拶を

あけましたが皆様いかがおすごしでしょうか。


あけてしまった、というべきでしょうか。


今まさに、空前のアレな状況です。


集中。ただもう目の前のことに。


09年とか10年とかもう、関係ありません。


いつだって今できるようにやるしかないのです。


昨年四月に祖母を亡くしておりますので、簡単ではありますが、年始の挨拶とさせていただきます。


今年もよろしくお願いいたします。

2010年1月 2日 23:32 | コメント (15) | トラックバック