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女生徒

とある女学生の、朝起きてから寝るまでの間のことが書かれている。


序盤、ところどころに現れる、“身悶えしちゃう。”といった、“ちゃう。”といった、女性ならではとおぼしき言い回しが鼻につき、作者はふざけているのかと思ったら、読み進めるうちに思いのほか真剣であることがわかり、妙な気持ちになる。“しょげちゃった。”とか。“朝は、意地悪。”とか。


当時はそういうのが生々しい表現だったということか。


先日まで「黒いインクの輝き」という作品で、女性心理のことをネチネチと書き連ねた私だが、女性を描く際に気をつけたのは、女言葉にしないことだった。こちらがそこを装飾してしまうと、それは机上の女性にしかならない気がしていたからだ。オカマ的というか。男が脚本を書いているという前提を、どうしたって皆さん意識した上でご覧になるはずだし。どうしても女言葉の方がよければ、稽古場でそうすればよろしい。


「女生徒」では、掃除のまえに“お”をつけたり、とても女らしい。女らしさが前に出てくると、それを操縦している後ろの男の影がよりいっそう気にかかる。なので、どこかオカマ的に思うのだった。が、当時の女の人は、それくらい女らしくあったということかもしれないので、文句はない。あるいは、角度によってはかわいくも見えるが、まあ中の下、あるいは下の上、くらいのルックスだと思えば、けっこう楽しめる。


10代の女性の孤独や不安が、ちょうど良い案配で、なめらかぁに描かれていた。父の存在や母の存在はやはり重要だ。終盤の母とのやり取りが好きだ。


ラスト2行は無くして、“おやすみなさい”だけにした方が、女生徒がふっと眠りに落ち、我々の前からも消えたような感覚を受け、寂しいという感情を読者も無意識に実感できたのではないかとも思うのだが、いかがか。父を失った主人公の感覚だ。


もちろん、ラスト2行があった方が、女生徒の切なさというか寂しさというか、そういうのがわかりやすく伝わるとは思うが。自分をシンデレラ姫とかぬかしやがって、と思ってしまうのだ私の場合。下の上、くらいで想像しちゃったから、余計。あ、言葉遣いが移っちゃった。


「富嶽百景」と同年、数ヶ月後に発表されているようだから、このラストのさじ加減にも、「ダス・ゲマイネ」の頃とは少々違う、穏やかで優しげな太宰さんが反映されているのかもしれない。

2010年1月29日 00:05

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コメント

こんばんは、浩平さん。
今日もお疲れ様でした。

富嶽百景も女生徒も初めて読んだ時には難しいと思った2作でした。
時折ドコとなく読んで不安になったりしてたので…。
でも、大人になって読むとあの頃の不安は何処へやら…淡々と読んで後から気持ちが付いてくる様な感覚でした。
女生徒はやっぱりいつ読んでも私は何かが蟠って残ってしまいます。
お母さんとのやり取りは好きなんですけど、何処か苦しいです。
女性的な視点の話は男女で結構思うところは違うかも知れませんね。
けど、昔の女性は今の女性にはない優雅さや余裕の様なモノは持っていたように思います。
私も女の端くれなんだし…と反省させられました。

今日は楽しい1日になりましたか?
明日が浩平さんにとって素敵な1日になるように願ってます。
夜分に、しかも長文失礼しました。
ゆっくり休んで下さい。

投稿者 良湖 : 2010年1月29日 02:39

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