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花燭

何年か前の、三鷹市芸術文化センターの企画、「太宰治作品をモチーフとした演劇」で、東京タンバリンさんがモチーフに選んだのが「花燭」(その時の公演タイトルは「華燭」)だったように記憶しているが、どうだったか、今、外でこれを書いているので調べる術が無く、なのにそのことについて書きたいもんだから申し訳ない。


そんな薄らボンヤリとした記憶があるものだから、読んでる間中、これをどう演劇にしたのかについて考えてしまった。とくに演劇にすることが困難な種類の作品とは思わない。まっとうに演劇らしい演劇にも出来よう気がする。端々に、コメディのような、間抜けの描写も見受けられ、情けなくも優しい読後感もあり、設計図も立てやすいのではないか。


だから、私が考えたことは、これをどうすれば演劇に出来るんだ?という問題ではなく、どうすれば演劇的になるのだ?ということだ。


演劇にする以上、演劇の土俵に上げて、もう、完膚なきまでに転がし倒して、まるでそもそもが演劇の台本だったかのようななにかを作り上げたいと思うわけだが、この「花燭」は、物語もしゃんとあって、はなからある程度演劇的でもあって、これをあえて演劇で演劇的に見せる面白味に昇華させるのは、案外難しいのではないかと想像するのだ。


いや、東京タンバリンのことだ、そこは丹念に演劇へと昇華させたに違いない。要は、自分たちがそれをやることを考えると、考えることがいろいろあって、しかもやっかいで、それはそれは大変だろうなぁと、きゅっと肛門の縮まる思いがしたということだ。肛門て言葉久しぶりに書いたな。どうでもいい。


演劇だからできること。そんなことを最近よく考えます。

2010年3月14日 03:29

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