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読んでいる書いている

ごぶさたしている。


ちょっともう、のっぴきならない状況になって来たので(毎回のことだが)、ちゃんとした感想は、結果的にあとから書くことになってしまうのではないかと思うが(それじゃ意味あるのか?)、それでもなんせ読んでいる。読みまくっている。昼夜を問わずだ。


ダイジェストにする。


●新潮文庫版「ろまん燈籠」の、

「十二月八日」
戦争が起きた日の話。奥さん目線の太宰さん的旦那が間抜け。

「小さいアルバム」
写真で回顧する太宰さんの人生。戦中、だからこその、「次の一枚」への思いが印象的。

「禁酒の心」
戦中の、酒にまつわる随筆風作品。

「鉄面皮」
私の面の皮は厚い、的な。「右大臣実朝」に夢中の頃の話。

「作家の手帖」
戦中に思った様々なことを、それこそメモ風に。

「佳日」
大隈君はむかつくが、それに振り回される太宰さんにもイライラする。でもいい話。

「散華」
大いなる文学のために、死んでください。この言葉に尽きる。

「雪の夜の話」
文字通り、雪の夜の話。女の子が不憫で愛おしい。

「東京だより」
戦中、誇りを持って生きている人がいることを描きたかった、そんな短編。


●さらには、新潮文庫版「新ハムレット」より、

「古典風」
構成が面白い。デタラメだけど、なんかよく伝わる。「葉」を思い出す。

「女の決闘」
これも面白い。原作と批評眼と創作文とがごっちゃまぜになって心地いい混沌。

「乞食学生」
夢オチかい。

「新ハムレット」
私はハムレットも知らない。これがハムレットか、と思った。

「待つ」
凄く淋しくなる短編。そこがいい。


幾つかの有名な長編(「津軽」「右大臣実朝」「パンドラの匣」「斜陽」)は、あらすじもわかったので、ひとまずパパーッと飛ばし読みして、


●新潮文庫版「お伽草子」より、

「盲人独笑」
ひらがな多くて大変だけど、だんだん意味がわかってくるから不思議。

「清貧譚」
おとぎ話的な作品。「きりぎりす」との対比を考えたい。

「竹青」
清貧譚と同じ、「聊斎志異」という中国の作品を原作にしている。


●新潮文庫版「ヴィヨンの妻」より、

「親友交歓」
タイトルから普通に想像するのとは全然違う作品。

「トカトントン」
なぜこの作品が恐ろしく感じるのか。わかるけどわからなくて恐ろしい。

「父」
だいぶ残念な感じになって来た太宰さん。終盤のくだりが心に痛い。

「母」
前半の、青年と、偉そうな太宰さんの会話が面白い。後半が主題なんだろうけど。

「ヴィヨンの妻」
ヘー、こういう話か、と。犯されるくだりがサクッと語られる所がいい。

「おさん」
たぶんこの頃には、太田さんと浮気したり、だいぶダメになってたんだろうことがわかる。

「家庭の幸福」
家庭の幸福は諸悪の本。まあ、一理ある。

「桜桃」
夫婦喧嘩。そして自殺願望。だいぶしんどそうな太宰さん。


●新潮文庫版「グッド・バイ」より、

「薄明」
甲府で空襲を受けた頃の家族の話。先に「桜桃」辺りを読んでるから、逆に悲しい。

「苦悩の年鑑」
思想にまつわるイライラがそのまんま吐き出された感じ。

「十五年間」
「東京八景」につづく、回想録的作品。だけど、前よりだいぶイライラしている。

「たずねびと」
疎開途中の自分を客観的に、自虐的に。イライラしている。

「男女同権」
男女同権を逆の意味でとって話す所は面白い。「黄村先生」を悲惨にした感じ。

「冬の花火」
戯曲。なんとも救いのない話。太宰さんがだいぶ落ちて来ていることがわかる。

「春の枯葉」
戯曲。これもなんとも救いがたい。

「メリイクリスマス」
淋しくて、ちょっとだけ優しい話。東京戻って来てすぐだからか。

「フォスフォレッセンス」
夢と現実の境目が無くなる、不思議な話。なんか、とんがってる。

「朝」
男のスケベ心にまつわる話。間抜けというより、生々しい。

「饗応夫人」
やりきれんなあ、どうにかならんのかい、と思う。イラッとする。

「美男子と煙草」
泣きながら愚痴る所とか、だいぶダメージがひどい太宰さん。

「眉山」
伏線がちゃんと回収される、わかりやすい話。で、悲しい話。

「女類」
またもやりきれぬ話。死がとても近くを漂っている。

「渡り鳥」
浅薄な芸術青年の話。どうすりゃ、いいんだい。が、情けなく、でもなんかわかる。

「グッド・バイ」
未完。ふっきれている。面白い。続きを読みたく思わせる、痛快な作品。


●新潮文庫版「津軽通信」より、

「短編集」
各短編の発表年から、ああ、こういう頃か、とだいぶわかるようになってきた。

「黄村先生言行録」
ちょいと軽薄な風刺もの。

「花吹雪」
黄村先生シリーズ第2弾。構成が面白い。最後はもう、コント。

「不審案」
黄村先生シリーズ第3弾。最後の方はこれもコント。

「津軽通信」
5つの短編。「庭」辺りの頃はまだいいが、だんだん殺伐としてくる。

「未帰還の友に」
戦後の話。イタズラが生んだ、若い男女と太宰さんの苦しいエピソード。

「チャンス」
「恋愛」なんか「性愛」じゃねえか、という正論をまくしたてる。

「女神」
気が狂った友人を、淡々と観察する太宰さんが残酷だが、その姿勢は間違っていない。

「犯人」
なぜか「日の出前」を思い出した。殺伐具合か。

「酒の追憶」
酒にまつわる随筆。「禁酒の心」とは、時代が違えば書くことも違う。


●新潮文庫版「もの思う葦」より、

「もの思う葦」
若い頃だからか、小難しくていけない。


●新潮文庫版「地図ー初期作品集ー」

・・・については、収録数が多過ぎて、割愛。28作品も収録されてやがった。多作だなおい!


ね。読んでるでしょ。今回列記したやつ足したら、90作です。90て!


「もの思う葦」は、随筆集であり、この先、「碧眼托鉢」やら、「如是我聞」やら、たくさん読まなければならないものがある。なんせ太宰さんの本心がダイレクトに述べられているわけだから。


さらには、新潮文庫版「パンドラの匣」に収録されている「正義と微笑」という長編が、長編ゆえに置き去りになっていて、しかしこれがけっこう今後の「Do!太宰」の重要な構成要素になりそうなので読み飛ばすわけにはいかず。


あと、新潮文庫版「お伽草子」の、「お伽草子」と、「新釈諸国噺」も、実は太宰さん史上屈指の仕事だと言われているので、ぜひ読んでおきたい。


そして「人間失格」。


さすがにここまでいろんな作品を読んでくると、例えば、「俗天使」という作品の中ですでに「人間失格」というタイトルは思いついていたり、「思い出」や「道化の華」や「HUMAN LOST」をつなげれば、ほぼ「人間失格」の前半部分になることは想像できたり、と、なんかもう「人間失格」は読んだような気がしてしまうが、まあ、読む。というか前半だけは、執筆に必要だったため、すでに読んでいる。で、想像通りだった。


がんばっている。がんばらないが信条のつもりで、結果いつもがんばり気味の私だが、今こそはほんとにがんばっている。なんせ一日は24時間しかないのだ。


これこそは観に来て欲しい。

2010年4月22日 00:15 | コメント (6) | トラックバック

予約開始だ!

4月21日までこの記事がトップに来るようになっています。


ブルドッキングヘッドロック10周年記念Tシャツ特設ページにて、Tシャツの予約が始まりましたアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア、ゲフ、ゴホッゴッホ!!ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアガハ、ゲへ!!ガフン!!


定番の黒Tシャツは、久しぶりの2色使い。白とターコイズブルーの発色が最高。さらに、赤ボディ、青ボディも2色使いの贅沢Tシャツ。さらには女性にお勧めのラベンダー。そして、実は前から僕が一番欲しかった、ナチュラル(生成りの白)ボディがキヤスデザインでは初登場。男は黒インクバージョンで、女は赤インクバージョンで、いやどっちもありで、どうぞこの夏、着倒していただきたい!


加えて、さすがの10周年。大好評だったラグランTシャツも再登場。オールチャコールの渋めパターンと、ネイビー×ホワイトのカジュアルパターンの2色展開。どちらも季節を問わない優れものです!


さらに、さらああああにいいい!初登場のトリムTシャツ!襟と袖のアクセントがキュート!稽古場で広げたサンプルの中でも、トリムのアプリコットバージョンが、一番人気。私も今年はトリムでまいります!


総勢10パターン!10周年だから10パターン!さあ!どれにするんだい?どれにするんだい、さあ!


TシャツEXPOもご覧になって、過去Tを振り返りつつ、10年目の記念をどうぞ一つ!どうぞ!

2010年4月21日 00:22 | コメント (3) | トラックバック

一般発売開始

ひとまずこの記事をtopに置いておきます。いずれ下げます。


「Do!太宰」のチケット一般発売が始まりました。優先予約を逃した方、どうぞ。今日からです!!


稽古はジリジリと進んでいます。


できることなら、稽古のことを毎日ここに書きたいと思っていたが、なかなかそうもいかない日々だ。感想文もたまっている。とっくに新潮文庫版「ろまん燈籠」は読み終わっているのだ、実は。今は、新潮文庫版「初期短編集ー地図ー」を読んでいる。太宰さんが、生涯で初めて書いたことになっている短編などがもっちゃりと収録されている。新潮文庫版「晩年」より、さらに前の作品ということだ。多少下手な所も眼につくが、すぐに敬愛する芥川龍之介らのテクニックを取り込み、立派なそれらしい作品になっていく。恐るべし。


ていうかさ、ほんとよくまあ書くね太宰さん。簡単な気持ちで全作品を読む、と言ったが、こんなにあるんだったらそんなこと言わなかったよ、稽古のことが書けねえじゃねえか!と、ひどい逆切れをしている始末です。


しかしまあなんせ作っていてこんなに楽しいのはありがたい。「Do!太宰」は、脳みそのいろぉんな部分を使って作っている。皆さんが出来上がった作品を見てどう思うか知れないが、私は、この作品をこそお勧めしたい。


豊穣な演劇作品になるような気がしてならないのだ。


2010年4月 5日 12:54 | コメント (1) | トラックバック

新郎

「一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。」


の一文で始まる、太平洋戦争開戦の日(12月8日)に書かれた作品。ここから先の作品は、戦争と切り離すことの出来ないものばかりである。


極端に、まっとうで、清廉潔白な人間として振る舞う太宰さんの姿が描かれる。


時代の、とてつもなく大きな変わり目において、なんというか、こう、異様に清々しくなる気持は、わからないでもない。まさに新郎の心境。


たとえばそれは、元日を迎えるたんびに、なんか、新しく生まれ変わったような気になるそれと、程度は全然違うけれども似ているのではないか。全てにおいて優しく正しくあろうとする、それだ。もちろん、これから一年がんばろう、というそれと、日本が、あるいは自分の暮しが、明日にはどうなるかわからないそれとでは、おおいに意味合いも違うわけだが。なんかわかると思ったわけだ。


かつては、おおいに自ら死のうとしていた作家が、戦争という状況下では静かに穏やかに生きようとしている。なんとも人とは複雑なものである。

2010年4月 4日 13:53 | コメント (2) | トラックバック

冒頭の一文が、ブルドッキングヘッドロックの深澤千有紀の、普段の言い回しを想起させる。


「恥をかいちゃったわよ。」


「ちゃったわよ。」が深澤的なのである。まあそれはそれとして、


ある種のコメディであると思われる作品だ。とある女性読者が、ある、自分自身を卑下するような内容ばかりを書く作家の、新たに発表した作品を、自分をモデルにしていると勘違いする。その前に一度ファンレターのようなものを送ったことがあったからである。で、女性読者は勘違いに勘違いを重ね、ついには作家の元へ出向いてまでいってしまうのだが、そこにはちっとも読者が思い描いていたような下劣な男は居ず、その作品のモデルも自分ではなかったことに気づき、大恥をかく、という作品である。


コメディ的な仕組みになっている作品ではあるが、これを書いたのが太宰さんで、作中で言えば、「自分自身を卑下するような内容ばかりを書く作家だけど実際は立派なちゃんとした人物」の側の人であるわけだから、これはなんとも意地悪である。


なんか、女性読者に恨みでもあったのかと思う。

2010年4月 3日 13:52 | コメント (2) | トラックバック

太宰さんが学生に「人々は私を何者だと言うかねえ?」と聞いたら、ある学生が「あなたはサタンですね、悪の子です。」と言われ、ひどく狼狽、サタンについて執拗に調べ、オレはサタンなんかじゃねえという事をネチネチと論じ、やがては、なんでサタンだなんて言いやがったんだあいつ、と今さらな疑問を持ち、オレはどっちかっつうとサタンよりその手下の悪鬼じゃないか?と勝手に思い至り、自分が悪鬼かどうかを確かめるために、とある先輩の家を訪ね、かつて自分がその先輩に送った借金の嘆願書のようなものを読み、その先輩が嘆願書に朱筆で入れた書評をけなし、で、自分は悪鬼なんかじゃない、馬鹿だ、と合点し、安心する。のだが、別の人から思わぬ形で「あなたは悪魔です。」と言われちゃいましたわやっぱり。という話。


要約すればこの程度の事を、まあ、のらりくらりと、あれやこれやと、書き綴る。よくもまあ。


内容よりも、手を変え品を変え「悪魔」のことで膨らませる、その手管に感心する。


悪いがこれも、「服装に就いて」の項で触れた、原稿の枚数問題があるのではないかと勝手に意地悪な空想をする。生活のために膨らませたのではないかという妄想だ。そうすれば、「きりぎりす」あたりの、商業作家になっていく自分を戒めるような作品の存在が、グッと意味を持ってくるのではないかと思うのだ。

2010年4月 2日 18:01 | コメント (2) | トラックバック

令嬢アユ

「佐野くん」という若い友人の事を書いている。「佐野」と言えば、「ダス・ゲマイネ」の主人公も佐野であった。太宰さんには、どの登場人物にもモデルがいるのではないか。余裕があれば調べて行く予定だ。


どうにもダメな感じの佐野くんが、かっこつけて旅に出て、旅先でかっこつけて釣りをしてたら、素敵な女性に出会って、かっこつけたり笑ったり恥をかいたりするうちに、その女性と結婚したいと思うのだけど、実はその女性が娼婦らしいとわかり、ひどくがっかりするという、今だったら人権ナンタラが文句言いそうなオチがつく話。だからって、私だとしてもやはりドキッとしますわな、好きになった人が例えば風俗の方だったら。


まあそれはさておき、どうやらいよいよその当時、戦争の気配がそこかしこにあったようで、女性が連れていたおじいさんの、その甥御さんが出征したというエピソードが終盤に挿入されるのだが、作品に戦争の気配があることが、これまでの作品とおおいに異なり、そのことで娼婦の存在もまた異な味わいとなっていることに、気が行った。


全ての人間に等しく戦争はなにかをもたらし、それによって生じるなにかは人それぞれなんだろうが、この作品の中では、娼婦という職業への眼差しと、その娼婦の人格とをくっきり天秤にかける。が、別に胸焼けするような重さはない。ちょっとほのぼのとすらさせる。


私は「ケモノミチ」という作品で、のっぴきならない状況に陥った人々の、のっぴきならないが故に露になっていくその人の内側というものを、これでもかこれでもかと濃く書いてみたわけだが、今作を読んで、ああ、こんな風に軽やかに、淡々とそれを描いてみせる事もできるのだなあと、思ったのだ。

2010年4月 2日 16:57 | コメント (1) | トラックバック

服装に就いて

新潮文庫版「きりぎりす」に収録されている、「おしゃれ童子」に続き、またも太宰さん本人の服装にまつわる諸々が書かれている。


「おしゃれ童子」の項で、私キヤス自身の服装にまつわるあれこれについても書かせたいただいたわけだが、いくら滑稽に書こうとも、思うことは、 “ けっこう恥ずかしいね! ” ということであって、その恥ずかしさは、書かなくていいことを書いている、読者がさほど知りたいと思っていない事を書いている、という恥ずかしさであり、だからなんか、押し付けがましいだろうという困惑を自分に与えるのだ。実際、有無を言わさず服装の事を書いた私であり、恥の記録である。


そんな、自分の服装にまつわるエトセトラを、二度も書ける太宰さんという男はまったくもっていったいなんなのだ!と考えたら、「とにかくなんか書かねば」ということなのではないかと思い至った。


「服装に就いて」が発表されたのは文藝春秋。これはあくまで想像なので、失礼をご容赦願いたいが、文藝春秋から、「太宰さん、原稿用紙◯◯枚で。」と執筆の依頼があったのだろうことは容易に想像される。で、あったのだが、とくに指定の枚数で書ける小説が思い当たらない。あるいはもっとシンプルに、その時は書きたいものが特になかった。でも仕事は欲しい。金は必須だ。なんか書かねば。なんだ。なんかあったか最近。ああ、そう言えばあの変な着物のことがあったな。あの変な着物を着た時の事を膨らませて、なんか書けるんじゃないか。よし書こう。いや、でも枚数が足りないな・・・もう一つ二つエピソードを足すか。じゃオレのエピソードでいいか。誰にも迷惑かかんねえもんな。よし足そう。ようし!お仕事ゲットだぜ!


くらいの感じで書いたのではないか。ゲットだぜとは言わなかったとしても。だったら、自分の事を書かざるをえなかった太宰さんの気持もわからなくもない。と、思うのだがどうだろうか。だって、そういう理由でもないとさ、書かねえよ普通、自分の服の事ばっかりをあれやこれやと。


もちろんハナっから文藝春秋に、「太宰さん、服装というテエマでなにかひとつ、ひとつ。」と頼まれたのかもしれないわけだが。でもだとしたら今度は、なんなんだよ文藝春秋って、となるのである。

2010年4月 2日 15:54 | コメント (2) | トラックバック

みみずく通信

新潮文庫版「きりぎりす」に収録されている、「佐渡」の、佐渡に渡る前の新潟でのエピソードが綴られている。


お、つながった、という小さな喜びがある。太宰さんは案外たくさん文章を残していて、全てを網羅するのは大変だが、こういう喜びを与えてくれる事で、この先もひと通り読もうかという気にさせる。


新潟の学生たちが生意気で良く、そんな学生にムキになる太宰さんもまた良い。まあそうか、自分と自分に関わった若者の事を書いているのだ、毒っぽくとも、ちゃんと良い具合に感じられるように書くわな、そりゃ。そこはほら、太宰さんだもんな。


「勉強し給え。おわかれに当たって言いたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給え、だ。」


という太宰さんの学生へ向けての言葉が、ペラくて笑えるのは、私の性格が悪いからか。あるいは、太宰さんが自分をほんのり卑下するために、あえてそう書いているのか。まあいずれにしろ大人はこう言うしかないとは思う。なんせ真実だから。だが、なんせペラいのが良い。そのペラさは、「給え、だ。」という言い方にあるような気がするが、これ、声に出して言って見ると、なかなかに、この「、だ。」の面白さを出すのが難しい。面白く言えたい文章だ。皆さんも言ってみると良い。

2010年4月 2日 12:52 | コメント (2) | トラックバック

ろまん燈籠

ここから、新潮文庫版「ろまん燈籠」へ突入。ようやく6冊目。全部で18冊。「ろまん燈籠」はまだ短編が多く、軽快に読めそうな気もするが、この先はどんどん長編が増えていく。気が遠くなるけどファイト、オレ。


「愛と美について」で登場した5人兄妹が再登場する物語。正確には、5人兄妹のというか、5人兄妹が書き継いでいく物語と、5人兄妹自身の日常とが同時に描かれる物語。彼ら5人を介して物語を書く事を、お気に召したらしい。なんかわかります、そういうの。


長兄は愚直で無粋、長女は眼鏡で聡明、次兄は病弱で美男だが俗物で、次女は猛烈なナルシスト、末弟は大人ぶりたい未熟の青年。といった案配で、どのキャラクターも個性的で実に豊かである。


「愛と美について」と同じく、5人兄妹がリレー方式で一つの小説を書き上げていく。兄妹それぞれの性格が、そのリレー小説の行く末を、二転三転させ、いびつだが、振り幅の広い、味わい深い作品を作り上げていく。


母や祖父祖母ら、兄妹の周囲の家族も魅力的で、太宰さんにしちゃあだぁいぶ毒気が無い。もちろん、兄妹っつか作家の主張じゃん、と思われる部分は散見するわけだが。


なんというか、お手軽な娯楽作のような、楽な心持ちで読めるので、たまにはありがたいです太宰さん。

2010年4月 2日 10:49 | コメント (3) | トラックバック

稽古の事を書く(3/25)

「Do!太宰」の稽古が始まって、一週間が経つ。その間、稽古は4回行われた。


一日目(3/25)のことを書く。その日は、普段あまりやらない、レクレーションなるものを行う事から始まった。私なりにレクレーションというものを解釈した結果採用された、とあるゲームを行うのである。思えばこの10年、レクレーションを必要とする際には、必要かどうか実際は怪しいところだが、なんせそのゲームを行って来た。そのゲームについてこの場で説明する事はしないが、至極単純なゲームである。全員で円になって数字を言えばよい。そのゲームに、いい大人が、上手なコミュニケーションの取り方を未だ獲得できないタイプのいい大人が、懸命に声を張り上げ、無駄に盛り上がりながら、取り組むのである。その姿に、愛着と悲哀を感じずにいられない。ぜひその様子をお見せしたいものだが、その必死の盛り上がりに、ひく者はひくだろう。


その後、当ブログの「秋風記」の項で触れたが、「太宰治作品を一人一つ選んで、三分間で発表する会」の、発表順を決めるための、あみだくじを行う。あみだくじを本気で行うなど、いったいいつ以来だろうか。いい大人が、あみだくじに一喜一憂する様に、ひく者はひくだろう。


最後に台本読み。というか、台本未満のサンプルの様なものを、男性出演者に読んでもらう。いつも、なにかが自分たちの中で新しくなければと思って作品作りに取り組んでいるのだが、今回はいつにも増してその意識が強い。なので、配るサンプル台本も、いつものつもりで軽く読まれたのでは、おそらく鼻くそほどの面白さにしかならないはずだ。いや、鼻くそはそこそこ面白いか。


実際、なかなかに難しいようである。すんなりとはコメディにならない。役者個々の読解力、アイディア、セリフを的確に発するための技術。平面の文字を、空間に立体化するために、当たり前と言えば当たり前なのだが、役者に求められるものは、たくさんある。


台本の1ページ目には、いつも「イントロダクション」と称して、舞台美術の事や物語の設定など、関係者が事前に知っておいた方がいいに決まっている事をあれこれと書くのだが、今回はこう書いた。


「小説作品を、わざわざ演劇にすることの、意味はどうでもいい、面白さを知りたいと思っている。」


私にできる事は、小説作品を台本という地図に描き直す事で、極端なことを言えば、平面的な作業なので小説を書く作業とたいして変らない。文字で読ませる表現と、演劇という表現の大いなる違いは、当たり前だが、そこに役者の肉体が介在する事だ。


役者が、その肉体を通してなにをしてみせるか。そこにこそ、わざわざめんどくさいのに演劇にしなければならないほどの、面白さがあるのではないかと思っているのだ。


そこに気づき、あるいは既にその考えを意識的にしろ無意識的にしろ備えている役者さんが、きっと本番の舞台上でも大活躍しているのではないか。あたり前すぎるけど。


10年もやってきて、当たり前の事ばかり書くのはなんだか、なんだかなあ、だが、まあいいじゃないか、なんせ10年目なのだから。


レクレーションで見せる、常軌を逸した盛り上がりを、台本を読む事にも持ち込めばいいのではないかなぁ、と思ってみたり。私が見る限り、レクレーションにおいては、どの者にもおおいに肉体がある。台本を渡すと、その肉体が縮む。なに?キモチの問題?


まずはそこからだ。

2010年4月 1日 00:06 | コメント (1) | トラックバック