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稽古の事を書く(3/25)

「Do!太宰」の稽古が始まって、一週間が経つ。その間、稽古は4回行われた。


一日目(3/25)のことを書く。その日は、普段あまりやらない、レクレーションなるものを行う事から始まった。私なりにレクレーションというものを解釈した結果採用された、とあるゲームを行うのである。思えばこの10年、レクレーションを必要とする際には、必要かどうか実際は怪しいところだが、なんせそのゲームを行って来た。そのゲームについてこの場で説明する事はしないが、至極単純なゲームである。全員で円になって数字を言えばよい。そのゲームに、いい大人が、上手なコミュニケーションの取り方を未だ獲得できないタイプのいい大人が、懸命に声を張り上げ、無駄に盛り上がりながら、取り組むのである。その姿に、愛着と悲哀を感じずにいられない。ぜひその様子をお見せしたいものだが、その必死の盛り上がりに、ひく者はひくだろう。


その後、当ブログの「秋風記」の項で触れたが、「太宰治作品を一人一つ選んで、三分間で発表する会」の、発表順を決めるための、あみだくじを行う。あみだくじを本気で行うなど、いったいいつ以来だろうか。いい大人が、あみだくじに一喜一憂する様に、ひく者はひくだろう。


最後に台本読み。というか、台本未満のサンプルの様なものを、男性出演者に読んでもらう。いつも、なにかが自分たちの中で新しくなければと思って作品作りに取り組んでいるのだが、今回はいつにも増してその意識が強い。なので、配るサンプル台本も、いつものつもりで軽く読まれたのでは、おそらく鼻くそほどの面白さにしかならないはずだ。いや、鼻くそはそこそこ面白いか。


実際、なかなかに難しいようである。すんなりとはコメディにならない。役者個々の読解力、アイディア、セリフを的確に発するための技術。平面の文字を、空間に立体化するために、当たり前と言えば当たり前なのだが、役者に求められるものは、たくさんある。


台本の1ページ目には、いつも「イントロダクション」と称して、舞台美術の事や物語の設定など、関係者が事前に知っておいた方がいいに決まっている事をあれこれと書くのだが、今回はこう書いた。


「小説作品を、わざわざ演劇にすることの、意味はどうでもいい、面白さを知りたいと思っている。」


私にできる事は、小説作品を台本という地図に描き直す事で、極端なことを言えば、平面的な作業なので小説を書く作業とたいして変らない。文字で読ませる表現と、演劇という表現の大いなる違いは、当たり前だが、そこに役者の肉体が介在する事だ。


役者が、その肉体を通してなにをしてみせるか。そこにこそ、わざわざめんどくさいのに演劇にしなければならないほどの、面白さがあるのではないかと思っているのだ。


そこに気づき、あるいは既にその考えを意識的にしろ無意識的にしろ備えている役者さんが、きっと本番の舞台上でも大活躍しているのではないか。あたり前すぎるけど。


10年もやってきて、当たり前の事ばかり書くのはなんだか、なんだかなあ、だが、まあいいじゃないか、なんせ10年目なのだから。


レクレーションで見せる、常軌を逸した盛り上がりを、台本を読む事にも持ち込めばいいのではないかなぁ、と思ってみたり。私が見る限り、レクレーションにおいては、どの者にもおおいに肉体がある。台本を渡すと、その肉体が縮む。なに?キモチの問題?


まずはそこからだ。

2010年4月 1日 00:06

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コメント

喜安さんこんばんは。
レクレーションの盛り上がり、あみだくじに一喜一憂。
ひくかもしれませんが、見てみたいです(笑)。
10周年にふさわしい新しい面白さを生み出せるよう、応援してます!

投稿者 りか : 2010年4月 3日 02:36

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