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小島聰という男について

15年前。我々は確たる目的も無いまま走り出した。


劇団を作ることは、本来、集団で演劇を創作することでなにかの目的を実現させる、そのための「手段」であると、今なら思う。そう思う現在の私からすると、15年前の我々は、いささか残念な若者たちであった。


間違いなく甘かった。その甘さが、数えきれない、そして予測しえない苦難を、後の我々にもたらすことになる。ものを作ることで、あるいはスタッフの皆様に、観客の皆様に助けていただいたことで、たくさんの喜びを与えていただいたが、逆に、たくさんの小さな諍いや、たくさんの迷走、大いなる落胆も味わった。


やらないにこしたことはない。と、私はいつも冗談半分で言う。演劇について話す時だ。なにしろたくさんのことを味わっている。冗談半分ということは、半分真剣でもあるということだ。しかし、この私の言葉は、私自身の費やしてきた時間を思えば、演劇というよりも、劇団について言ったことではなかったかと、はたと思う。演劇はやっぱり楽しいです。若者よ、ぜひおやりなさい。しかし、劇団はと言えば、、、やはりどうにも大変なのである。いつだって、ある新鮮さでもって言える私だ。やらないにことしたことはない、と。


先に手段と申し上げたが、この手段というやつははやっかいだ。それは時として目的にすり替わる。行為そのものが目的となり、どこへ向かっているのか、なにを成し遂げようとしているのか、本人にすら見えなくなることがある。


我々にこそ、そういう時期があった。もちろん、過去現在の劇団員の名誉のために申し上げれば、それは集団全体の意志の話で、個々には高い志があったことだろうし、実際に、なにかの目的に向かって、みな、それぞれの方法、それぞれの考えでもって今も邁進している。し、後に、集団の意志も確たるものへと変貌していった。私が言う時期とは、旗揚げの頃のこと。つまり私が立ち上げを主導し、主宰を務めていた時代のことだ。あの頃、我々には見えていないものがたくさんあった。


集まった人間はみな、演劇をやりたいと思っていた。しかしそれ以上に、仲間と集まり、なにか、なんでもいいから面白いことがやりたいと思っていた。面白いことをどれだけの観客に見せたいか。届けたい観客とはどの観客なのか。そもそも我々の言うところの面白いこととはなにで、その実現のためにはどんな力が必要か。この行為はいったいどこに辿り着けば終わるのか。そもそも終わらせる気があるのか。在りもしない永遠というやつに挑もうというのか。全てが漠としたまま、我々は集まった。


集まってからがまさに本番だったはずだ。しかし、心のどこかで集まることが目的になり、集まることに満足してはいなかったか。見知らぬ街でも変わらず演劇をやれる、そのことにたやすく達成感を感じてはいなかったか。言葉は違えど、通り過ぎていった仲間たちが私に残していってくれた言葉も、要はこのことを指摘していたのではなかったかと、時おり考える。振り返れば反省。そんな15年。気づけば15年。そして15年。




旗揚げメンバーの一人、小島聰が、劇団活動に終止符を打ち、2014年末日をもって退団、併せて、役者業も引退いたします。




こう申し上げると、他の劇団員に対して語弊があるかもしれないが、あえて言わせていただくなら、旗揚げメンバーは、劇団にとってなによりも替えのきかない存在だ。立ち上げて15年も経てばなおさらで、この先、年が重なれば重なるほど、さらに重要な存在になることだろう。なぜなら、その時どきの真実を語ることができるのは、その時どきに居合わせた張本人だけだからだ。居合わせた時代がほんの少しみんなより長いだけ、では済まされないのだ、本人の望むと望まざるとに関わらず。もちろん私も含めて。


そして、小島聰はおそらく、今残っているどの劇団員よりも、劇団に関する真実を知っていた男だ。それはつまり、劇団員のプライベートうんぬんという話ではなく、劇団が劇団であるために重ねてきた迷走や暴走、試行錯誤の端々に常に関わってきた、という意味でだ。彼がいなければ、ここにブルドッキングヘッドロックは無い。私が主宰であった時も、西山に代が変わった後も、彼が傍にいたことで成り立たったことは数しれない。長年関わってくださっているスタッフ陣の、小島引退に対する反応を目の当たりにすれば、それはより明白だ。Mr.ブルドッキングヘッドロックがいるとするならば、実は私でも現主宰の西山でもない、彼、小島聰のことだったと私は断言する。


しかしこのMr.。野球なら、あの長嶋茂雄氏を指す言葉だ。小島がブルドッキングヘッドロックのMr.だったのだとすれば、今後のブルドッキングヘッドロックはいったいどうなってしまうのか。誰もがその不安に駆られることだろう。巨人軍は永久に不滅でぇす!と言って球場を去った氏は、後に指導者として戦いの場に戻ってきはしたものの、果たして、選手として溌剌と動き回っていたあの時代に匹敵するだけ、観客を夢中にさせることができただろうか。


後の選手たちは、氏を越えてその存在を証明できただろうか。


氏が現役の頃とじゃあ時代が違う、と言えばそこまでだが、しかし、いつだってそこに氏の影は在る。Mr.は、あまりにも大きい。


小島と長嶋氏を並べて語るお遊びにも早晩限界があるだろうとお気づきのことだろうが、いや、私も気づいてはいるのだが、もう少しだけお付き合いいただこう。そう、小島が引退するということは、かつてMr.が現役を引退したのと同じくらい、我々にとっては、あくまで我々にとってはですが、歴史(劇団の)に残る大きな出来事なのだ。この後も劇団が永久に不滅だったとしても。


小島を語るにあたってこういう切り口になることは、小島がどのように劇団と、或いは私と関わってきたかを端的に表している。小島こそ、誰よりも“劇団”とともに暮らしてきた男であり、私に怒られ弄られ続けてきた男だからだ。


小島は、ブルドッキングヘッドロック旗揚げ公演で、主演を務めている。彼が主演であることに、他のメンバーも当時、違和感はなかったはずだ。彼には、同じ旗揚げメンバーの寺井や篠原がなぜかどこかに置いてきてしまった、言わば、溌剌とした陽の光のような輝きがあった。


それに加え、彼は、舞台監督という役職も兼務していた。舞台監督とは舞台上の責任者だ。例えば、劇場が火事になった時、劇場スタッフとともに観客を無事誘導するような責務も負う。それを、主演をこなしながらやろうとした、というか、やらせようとしたのだから、ほら、ね、先のように我々は大甘なのだが、なにしろだ、なにしろ彼は兼務した。陽の光を放ちながら、陰の中心にもいたわけだ。稽古場では、台詞覚えもそこそこに音響、照明、舞台美術の各スタッフと連絡を取りあい、劇場に入ったら入ったで、演技プランもそこそこに音響、照明、舞台美術の各スタッフに怒られ、責められ、ボロボロになっていた。あげく本番が始まれば、どこがうまくいってない、どこがつまらないと、私に怒られ、罵られ、正解なんてもうわからないとなるまで返し稽古をさせられた。本当によくやったもんだと思う。彼の東京暮らしは、それらを全て背負うところから始まっている。


「青空と複雑」の初演時には、現在もお付き合いいただいている照明家、斉藤真一郎氏にボロクソ言われ、仕込み中の袖裏で泣いていたと、先に辞めたとある劇団員が言っていたこともある。その時も彼は主演だった。そして、あろうことか、仕込み中に声を枯らし、初日にして声がガッスガスという失態を演じた。登場後の第一声、「ずいぶん晴れてるんだなあ!」がガッスガスだったことに、私自身覚悟はしていても、どうしても膝から力が抜けそうになったことを、今も昨日のことのように覚えている。


その後、我々には第6回公演まで舞台監督がつかず、およそ3年間、小島は舞台監督をこなしながら、役者としても中心人物を演じ続けた。となれば、スタッフ陣が、他のどのメンバーよりも小島と信頼関係を築いていったことは、ごくごく自然なことだった。


彼は今日に至るまで、時には事情があって出演を辞退することはあっても、常に劇団とスタッフ陣を繋ぎ続けてきた。このことが、どれほど我々を生かしてくれたか。下手くそな本に意味を与えてくださり、下手くそな演出に粋な効果を与えてくださり、下手くそな演技にさも深みがあるかのような空気を足してくださったスタッフ陣のことを、演出の私よりも誰よりも知り、ここに留めてくれていたのは、誰でもない、小島だった。


一方で、第6回の「見知らぬ骨1、2個」を最後に、小島はしばらく主演から遠ざかる。「骨」の次に主演を張るのは3年後の第11回公演「亀の気配」。永井とのダブル主演で、浮気で地獄を見る無職の男を演じた。次に主演と言えるのは4年後の第19回公演「Do!太宰」。非常事態にあってなお演劇を辞めない演劇青年の役だった。そして最後がさらに4年後、今年の第25回公演「青空と複雑(再演)」。 芸術家になる夢を叶えるために街に出て、迷走し、夢破れる男の役を演じ、まるで本人であるかのように劇中ラスト、劇場を飛び出し、街へと消えていった。


と書いていて、配役した私自身驚いた。あて書きっぷりにじゃない。それだと、小島は浮気で地獄を見たことになるが、見たことだってあるかもしれないが、いや知らないが、そこじゃない。劇団の25回と、いくつかの番外、プロデュース公演を通じて、彼は、いやさMr.は、意外にも明確に主演と呼べる役を、たった6回しか務めていなかったということにだ。


おいおい、いいのか僕らのMr.。巨人のMr.はずいぶんと4番を張っていたぞ!…そう野次っても後の祭り。彼はもう引退する。残念だが、7回目はもう、ない。そう配役したのは私なんだが。


そしてこの驚きが、私の筆をふと止めた。小島とはいったいなんだったのか。旗揚げ公演「思考の大回転」で主演を務め、引退作「青空と複雑(再演)」で主演を務めるという、まさにMr.的配役をゲットしておきながら、その途中では、どこでなにをしていたというのか。


答えは先と重複する。彼は劇団の運営に従事していた。もちろん様々な役をこなしながら。「女々しくてシリーズ」と幾つかの公演を出演者として休んだ以外、とにかく彼は劇団の中枢にいて、運営を担っていた。


劇団とは、演劇を作り、観客の前に届けるための集団だ。やっかいなのは、作るだけじゃダメだということで、少しでも多くの観客に届ける工夫を、どうせなら作って満足しちゃいたい連中であるにも関わらず、その工夫をしなければならず、が故に、けつまずいたり、空中分解するところも数多ある。


この、しなければならない部分の一翼を担い続けたのが小島だった。先に言った劇団の真実とは、こにあると言っていい。作品を作るだけなら、プロデュース公演だってよかった。それを劇団公演たらしめるには、いくつもの課題があり、その多くが演劇を志すものにとってそれは不得手な部分で、そこを乗り越えようとするとき、いやというほど“人間”が出てしまう。嫌わなくていい人を嫌い、疑わなくていい人を疑うことだって無いわけではない。そんな場所にずっと彼はいた。


私は役者小島に対して比較的罵詈雑言を浴びせ続けた方だが、基本的に小島を悪く言う劇団員は一人もいない。むしろ、最も劇団員に愛されていた劇団員と言えるだろう。なぜか。私は今、はっきりと納得した。小島とは、役者であると同時に、いや、むしろ役者である以前に、誰よりも劇団員であったのだ。


主宰だった私が、あるいは作演出の私が罵詈雑言を浴びせることができたのは、彼が、誰よりも、誰よりも劇団員だったからだ。


本人は嫌がるだろうが、後に語る機会は二度と無いので書かせていただくが、そもそも彼は別の作家と別の劇団を立ち上げるはずだった。それが、ちょっとしたボタンの掛け違いで頓挫したことで、私と15年をともにする羽目になった。ここからして妙な男だ。普通、役者を志す者が、劇団の立ち上げにまで話しが至る作家に出会ったのだから、なにがあろうともその作家について行けば良かったはずだ。なのに、彼は、話しが違うとして、その作家と袂を分かった。


乱暴に憶測を言う。彼は、作品よりも作家よりも、どんな場所でどんな集団を作るかの方をイメージしていたはずだ。


だから、互いの思惑がずれた時、彼は作家の意志よりも、自分を優先した。そして、抱いていたイメージを、結果的にブルドッキングヘッドロックに反映させた。ブルドッキングヘッドロックは、目的もまだ見つかっていないのに、劇団になり得た。小島がいてくれたことで。


もちろん作品のことも多いに語り合った。しかし、今、思い返して出て来る小島は、いつだって劇団のことを話している小島だ。そこには、いつだって溌剌とした力があった。時に、本人もよくわからなくなっていることもあったようだが、そんな時でも、妙な溌剌さだけは枯れることがなく、だからちょっとこいつの話を聞いてみようという気にさせた。


妙な話だ。目的も無く走り出したように見えたその集団には、もしかすると、その集団作りこそが目的であった男がいたのかもしれないのだ。どうりでやってこられたわけだ。彼の中で、手段と目的は一度もすり替わっていなかったのかもしれない。私や西山が主宰でいられたのは、彼の力によるものではなかったか。いやはや、旗揚げの頃を、我々はと言って反省してみせた私だが、ブレていたのはこっちだけだったのかもしれない。お見それした。彼は、のらりくらりと、いつだって真っすぐだったのだ。






小島聰は、Mr.ブルドッキングヘッドロックである。






と、ここまで書いてひと息つく。


…いやはや、どうだい、このはったりまみれの駄文。だがしかし、これも同じだけの時を歩んだ旗揚げメンバーだからこそ言える、冗談半分の真実だ。こういう、語る側のテキトウなアレで、氏もMr.になったんだきっと。…昔、ブルドッキングヘッドロックには小島聰という男がいてね、骨と皮だけできているのに、ずいぶんと張りのある演技で、観客を沸かせたり沸かせなかったりしたものさ。とね。


再びMr.の文字が出てきたところで、大きく話を戻そう。Mr.のいない後の世界の話だ。


Mr.が作った劇団から、Mr.がいなくなる。そんなことってあるのか。あるのだ。事実、今、我々の前にそれがある。いやがおうにも時代は変わる。いや、変えなければならない。当然、残った我々の手によって。


ただ、これも必然か、と思うのは、この数年、劇団自体がその集団性を少しずつ変様させていたということだ。うまく言えないが、確かに変りつつあった。その変様の先に、劇団を形作った男の退団、引退が待っていたということ。全ては流れの中にあるということか。


来年には新たなMr.が現れるのだろうか。あるいは、これまでとは全く異なる集団に生まれ変わるのだろうか。今はなにもわからない。歴史の大転換点にいるということだけしかわからない。今、我々は、主宰交代に匹敵する、或いはそれ以上の出来事の最中にいるのだ。


しかと受け止めよう。小島が作り、支え続けてくれた劇団を。そして、彼のこの先の不在を。その先に、いやがおうにも未来がある。


この文章に、馬場が退団したときのような湿り気が無いのは、あるいは関家や伊藤、久野らが退団した時のような落ち着きとも違うのは、やはり小島が誰よりも“劇団”に大きく作用していたからだろう。今までなら、「大丈夫。これからもオレたちは大丈夫」と言えた私だ。しかし今、それはおいそれとは言えない。自然と覚悟のようなものが生まれて来る。泣いてる場合でも、笑ってる場合でもない。そう思う。


小島くんは、劇団という集まりを離れ、家族という新たな集まりに専念する。いつでも彼の目の前にあるのは「人」なのだ。だから彼は愛された。これからも愛されるに違いない。どうか、どうかお幸せに。


まあ、役者としては、「青空と複雑(再演)」で初演とまったく同じように声を枯らし、日に日に、面白く言えてた台詞が面白く言えなくなっていったので、ある意味、なんだ、これはもう、レフェリーストップのような?なんとも言えない侘しさを私に味わわせてくれたわけだから、いいさ。じゅうぶんだ。やってほしい役もまだまだあったし、再演したい作品もあったが、いいよ。うん、よくやってくれた。本当にいろいろ言わせてもらってありがとう。と思っている。「バットとボール編」と「役に立たないオマエ」がオリジナルメンバーでできないことについては、まったくもってどうにかしてもらいたい気分だが、まあいい。うん、いいよ、いいいい。鳴らしてくれゴングを。あ、自分で鳴らしたか。そうか。


えー、新年から、新宿で珈琲店に勤めるといいます。珈琲貴族。この劇団には不思議な風習が残っていて、劇団員には私がキャッチコピーをつけることになっています。「燃える闘魂」みたいに。そこで私が小島くんにつけたキャッチコピーが「コーヒー貴族」でした。まさかそれがそのまま彼の勤め先になろうとは。あるんですよね、こういう奇妙な予言?事実、篠原は今も夜更かしをしていますし、永井はひねくれています。寺井はデジタルですし、西山はひらめきます。だから、小島のことを「どざえもん」とかにしてなくて、ほんっとによかったです。どうぞ新宿にお立ち寄りの際は珈琲貴族へ。


劇団ってなんだっけ?と思った時に、私も彼の店を訪れてみようと思います。きっとたいしたことも言わず、ニコニコだかニヤニヤだかしていることでしょうが、そこにこそ、劇団員小島聡の、いやさ、人間小島聡の、真髄ってやつが、あるのです。


長くなりました。ご清聴ありがとうございました。そして、




一緒に走り出してくれてありがとう。おつかれさまでした。

2014年12月27日 01:45 | コメント (0) | トラックバック

広島アステールプラザ演劇学校に寄せて

広島アステールプラザでの、2014年度演劇学校「劇作家コース」が、全日程を終了しました。

昨年に続き2年連続で声をかけていただき、担当の金沢さんを初めとするアステールプラザの皆様には、大変感謝いたしております。

わざわざ東京から広島まで出かけて行って、メールでも確認できるものを、筆者の目の前であーだこーだと解体、咀嚼して行く。効率も悪いし感じも悪い仕事ですが(笑)、お陰様でこちらにも気づかされること、勉強になることが多々ありました。人になにかを伝えるには、人となにかを考えるには、知性も感性もともにフル稼動させていなければならず、講座に参加している間は、私自身、頭の休まる暇がありませんでした。大変なトレーニングになったと自負しています。また、目の前に一緒に考える人がいることの緊張感と安心感を実感できたことも、今後の創作の一つの糧になると信じています。実に貴重な体験でした。

もちろん私のための講座ではありません。参加された受講者の皆さんに、なにかしらの手応え、成果があった、、、はず、、、だと、願っております。

しかし、広島に新たな演劇を根づかせるには、あるいは花開かせるには、まだまだまだまだ時間が必要なようです。

常に複数の表現者が行き交うような場所、それが劇場なのか、スタジオなのか、或いは稽古場なのか、有り様はいろいろあるかと思いますが、そういう場所ができていかなければ、競争も発見も革命も、起きようがない。その一端をアステールプラザさんが担おうとしてくださっているところに希望は感じられますが、劇的に変るには、若い人材の育成、つまり教育面での変化も必要であることは、他県、他地域の演劇シーンを垣間見るだけでも明らかでしょう。広島の若い男女よ。いろいろあるだろうが、演劇もあるよ。と、大人が示してみせるしかないのです。これ、どうすれば偉い人に届くのでしょうか。せっかく広島大学学校教育学部にいたというのに、今のところなんの役にも立っていません。平田オリザ氏くらいの知識、思想、ネットワークが必要なのでしょうか。

残念ながら現在の私にできることは、演劇は楽しい、あるいは、人が集まり共になにかを考え作ることは、心を頭を、豊かにするのではないかと訴え続けることだけです。それも今のところ、すでに演劇に興味を持っている目の前の人たちに対してだけ。実に微力、実に狭小です。だけど、なにもしないよりはマシだと考えるしかない。そこから少しでも風が吹いて、いつか大きななにかが動き出しますようにと、やはり願ってやみません。

狭い部屋の中の出来事でしたが、受講者の方々から、私には思いつかないいくつかの閃きやおかしみが生まれていきました。見学にいらしていた方々の客観的な助力も実に心強かった。彼ら彼女等が強かに融合して、わずかずつでも輪を広げていってくだされば、こんな嬉しいことはありません。

引き続きなんらかの形で協力できればいいのですが、どうなんでしょう。衆院選挙の日でした。なんとも不穏な日々が続いております。この先は果たして…。多様な表現が守られ生まれ、求められる社会が少しでも長く続きますように。

ではまた。

2014年12月15日 03:05 | コメント (1) | トラックバック

【ゲーム】はじめの一歩

幕の内一歩役(声)で 出演しております。
熱い、熱いゲームです。

『はじめの一歩』

2014年12月11日発売
対応ハード:PlayStation 3
価格:\7,600+税
※DL版有
http://ippo.bngames.net

2014年12月12日 01:02 | コメント (1) | トラックバック

劇団A.P.T最終公演に寄せて

母校、広島大学の演劇サークル、劇団A.P.T(アプトと呼ぶが、あんぽんたんと呼ぶ者もいる)が最終公演を迎え、無事終演したという。

私が在籍していたのは1993年から1995年。およそ20年前。代表なんて肩書きを任されていたこともある。

サークルを引退した後、進路を決められずフラフラしていた私は、A.P.Tの同期や先輩方に声をかけ、ちょっとした公演をうってみたり、あるいは、さほどの覚悟もないまま東京へオーディションを受けに行ってみたりして、決断の時期を曖昧に濁していた。その間も、A.P.Tの後輩たちは、定期的に公演をうち、大学の外へも活動の幅を広げ、おおいに学生生活を謳歌していた。そのころには、いつかこの集団も無くなるだろう、なんて少しも思わなかった。

A.P.Tに限った話ではないだろうが、サークルの構成員は基本的に4年にあがる時点で引退となる。就職やらなんやらで忙しくなるからだろう。ところが、進路を決めかねていた私は、当然ながら忙しくなることもなく、その後の日々を振り返れば、引退する必要なんてちっともなかったんじゃないかと思うくらいの演劇生活を送っていた。しかし、そのまま残るなんて選択肢は当時の我々には思いつきもしなかったことなので、すんなりと慣例通り引退し、近からず遠からずの位置から、ついこの間までいた場所を眺めていた。広島を離れるまでの話だ。

それから今日まで、一度もA.P.Tの公演を拝見することはなかった。東京で居場所を見つけ始めた私は、それを少しでも確かなものにするために必死で、かつていた場所を振り返る余裕など無かったのだ。それは、A.P.Tに限った話ではなく、生まれ育った愛媛の実家についても同じなのだが、一緒にすることでもないのかもしれない。なにしろ、なににつけても前方にしか道はなかったのだ。

何年か前、ブルドッキングヘッドロックが東京で開催したワークショップに、劇団A.P.Tの卒業生だという俳優さんが参加してくださったことがあった。私の在籍した時とは時代が異なるため、直接面識は無かったが、ワークショップ終了後に先方からそのことを告白されると、面映ゆい反面、また別の感情が湧くもので、その方の先々の活躍を願わずにはいられなかった。残念ながら、その後、直接ご一緒できる機会は、今のところ実現できていない。

実を言えば、ブルドッキングヘッドロックの永井幸子、寺井義貴も劇団A.P.TのOBOGだ。だから、私のところで突然ぷつりと縁が切れたわけではないはずなのだが、永井も寺井も私と同様、前を向くしかなかったのだろう、その後のA.P.Tとなにかしらの関係を繋いでいるようには見られなかった。

というわけで、私の周りからすっかり劇団A.P.Tの気配は無くなってしまった。

それから10年以上の時が経ち、私はいつしか、「1995年」をテーマに創作を重ねたいと思うようになっていた。このことについてはまた別の側面からも語る必要があるので、ここに深くは書かないが、なにしろ今から数年前、頭の中にフワリとそのことが浮かんで来た。2011年、3月11日の影響もあるのかもしれない。

そしてそのことを、初めて公に、正確にはツイッターで個人的な呟きとして外に出したのが、今年、2014年の秋だ。まだなにも決まっていない。こんなことができたらというプランも無い。ただ、「1995年」からなにかを想起できるんではないかという、勘のようなものが働いた、そのことを呟いてみたのだ。

少し話がそれるが、私個人の「1995年」を振り返ってみると、そこには、劇団A.P.Tの存在、演劇の存在が欠かせない。

劇団としては4つの公演をうった。1995年当時、通常は春、夏、冬の3回うつのが慣例だった。今思えば3回でも多いくらいだ。4回はかなりの負担だ。それでも敢行した。後輩たちの強い思いが我々を動かしたというのが正直なところで、私はその真ん中だか端っこだかで、ワーワーと声を張り上げていただけだった気もする。

それとは別で、本当に本当にささやかなことだが、初めて「脚本」というものを書いた年でもあった。秋の大学祭の催し物の一つとして用意した。私なりに確信犯的な仕掛けを施した本だった。物議を醸したい、その一心だったようにも思う。誰も表立って褒めてはくれなかったように記憶しているが、その時の興奮と喜びははっきりと自分の中にあり、その不確かな感覚を求めて、今も言葉を、あるいは会話をひねり出そうとしているのかもしれない。と思うくらい、小さな小さな私的エポックメイキングだった。

それから20年経ち、今、やはり私は、演劇に身をやつし、物書きとして七転八倒している。私の20年とは一体なんだったのか、考えてみたくもなるが、気が遠くなるだけなので、今はなるべく考えまい。

そして今年の秋、呟きと時を同じくして劇団A.P.T最終公演の報せが舞い込んだ。

なにかとなにかを関連づけ、意味付けるのは人の脳が生み出す他愛ない小細工のようにも思う。小細工だとは思うのだが、それでもなにかが繋がっているように思えてならない、奇妙なタイミングの相似だった。

「1995年」のことはいつ呟いても良かったはずだ。3年前でも別によかったし、タイトルを「1995」にしようと考えたのは、いつだったか思い出せないくらい、かつてのことだ。それをあのタイミングでたまたま呟いた。

A.P.Tの後輩から最終公演についての連絡をもらったことも、少々異なもので、昨年から私は広島で、劇作家講座なるもので僭越ながら講師を名乗らせていただいているのだが、そこに参加していたのが、私に連絡をくれた後輩だった。その後輩はそれまでにも、広島にナイロン100℃の公演で訪れれば会える程度に交流はあったのだが、昨年、突如私は講師、彼女は受講生(あ、後輩は女性でした)という間柄になり、かつてはそれほど交わさなかったであろう「演劇」の話、「創作」の話を交わしたのだ。あの時の交流も、ひいては広島への回帰のようなものも(実際には、その後の見知らぬ道への出発だと認識しているのだが)、なにかの布石のように思えてならない。

来年、2015年で私は40歳を迎える。

日本人男性の平均寿命を考えれば、そろそろ折り返しだ。人生の最初の10年と最後の10年は、人としてたいして使い物にならないだろうことを考えると、折り返しと言ったってきっかり半分というわけでもない。

そう思うと、今できることは今やるしかないと言う衝動に当然駆られる。私にとって、2015年は、1995年以来の一つの節目になるのではないかという予感が漂う。いや、別にたいしたことは起きないさ。妙な期待はしないでくれ、みんなも自分も。内なる部分での話です。1995年が私にとってそうであったように。

失礼、少しのつもりがずいぶん話が逸れた。劇団A.P.T最終公演に寄せて、そのことを書くつもりだった。

先の後輩から、最終公演を観に行きませんか、という誘いをいただいた。無理をすれば行けないことはなかった。まあ、無理の程度にもいろいろあるが。

迷った末に、私は行かない方を選んだ。

後輩の活動を見届ける。演劇と出会わせてくれた場所へ感謝の思いを届ける。それらも大事だし、実際、強くそうしたかった。しかし、やはり私は前を見たい。「1995年」をモチーフにするということは、あの頃を懐古することではないと強く自分に言い聞かせたい。あの頃を媒介にして、今現在我々が抱える傷やきらめきを、あるいはほんのちょっと先へ踏み出すためのなにかを、見つけたいという企みであり、目論見であるべきなのだ。今、あの場所を訪れ、覗き見することは、私の中に妙な感傷を呼び起こし、その企みに甘い蜜を注ぐようなものではないか。誰も興味を持たない私の回想録に付き合わせるような、そんな危うい墓穴を掘りかねない。そう考えた。

それに、最終公演と決めた方々のことを私はまったく知らない。同じ劇団にいても、時間という隔たりが、私と彼らを別の世界の人にしてしまった。別の世界の人が決断したことだ。応援はするし、思いは馳せるが、それはさて置き、こちらはこちらでこちらの決断と行動を繰り返すだけだ。時は刻一刻と進むのだから。

わざわざ難しい言い方をしただけじゃないかと仰る向きもあるだろう。そう、要は時間の使い道の話だ。というわけで、遠く東京の空から、公演の成功だけを祈念させていただいた。最終公演の場合、なにをもって成功なのか、最終公演を経験していないのでわからないのだが。赤字になって、誰がその経費持つんだよ、なんてことで揉めてなければ御の字か。

いや、きっと成功したことだろう。彼らが彼らの時間の中で出した答えがそこにあったはずだ。祝 最終公演!!

さて、ここまで私が居た後の劇団A.P.Tのことを考えて来たが、そらそうだ、最終公演に寄せてだもの、だがしかし、今この手を置く前に思うのは、私をこの世界に誘い込み、優しかったり、厳しかったり、きっと呆れたりしながらそっと見守ってくださった先輩方と、入団当時たった一人いた同級生の男役者のことだ。初めて稽古場に行った日。あの場所にあの方々とあの男がいなければ、私は今ここにこうして居ない。かけがえのない時間であったと思う。私が演劇を、集団でなにかを創作することの強さを信じているのは、あの時間があったからだ。ひとまずありがとうございます。おかげさまでずいぶん面白い20年を過ごせて参りました。

それぞれの時間がある。或いはあった。ということか。

広島大学の学生会館という場所で奇しくも交わったかもしれない私と現在の劇団A.P.Tの時間は、私が思いを馳せるにとどまったことで、今このタイミングで交わることはなかった。すまない、薄情な先輩で。ただ、いつかどこかで、思いもよらぬ奇妙な邂逅があるかもしれないと、不確かな期待は消さずにとっておく。なにしろ、同じ年頃に同じ場所で同じ喜びを知った、似た者同士のはずなのだから。







おつかれさまでした。さらば劇団A.P.T。関わった全ての人たちの胸の中で、そっと眠れ。







…とか言って、来年、名前を「演劇集団A.P.T」に変えて再始動!なんて言い出したらどうしてくれようか。

※コメント書き込めるように設定し直しました。

2014年12月 2日 23:47 | コメント (0) | トラックバック

『途中下車』

脚本を書かせていただきました。

特集ドラマ『途中下車』
NHK総合
12/25 22時放送予定

http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/8000/197198.html

観てちょうだいませ。

2014年12月 1日 13:29 | コメント (0) | トラックバック