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小島聰という男について

15年前。我々は確たる目的も無いまま走り出した。


劇団を作ることは、本来、集団で演劇を創作することでなにかの目的を実現させる、そのための「手段」であると、今なら思う。そう思う現在の私からすると、15年前の我々は、いささか残念な若者たちであった。


間違いなく甘かった。その甘さが、数えきれない、そして予測しえない苦難を、後の我々にもたらすことになる。ものを作ることで、あるいはスタッフの皆様に、観客の皆様に助けていただいたことで、たくさんの喜びを与えていただいたが、逆に、たくさんの小さな諍いや、たくさんの迷走、大いなる落胆も味わった。


やらないにこしたことはない。と、私はいつも冗談半分で言う。演劇について話す時だ。なにしろたくさんのことを味わっている。冗談半分ということは、半分真剣でもあるということだ。しかし、この私の言葉は、私自身の費やしてきた時間を思えば、演劇というよりも、劇団について言ったことではなかったかと、はたと思う。演劇はやっぱり楽しいです。若者よ、ぜひおやりなさい。しかし、劇団はと言えば、、、やはりどうにも大変なのである。いつだって、ある新鮮さでもって言える私だ。やらないにことしたことはない、と。


先に手段と申し上げたが、この手段というやつははやっかいだ。それは時として目的にすり替わる。行為そのものが目的となり、どこへ向かっているのか、なにを成し遂げようとしているのか、本人にすら見えなくなることがある。


我々にこそ、そういう時期があった。もちろん、過去現在の劇団員の名誉のために申し上げれば、それは集団全体の意志の話で、個々には高い志があったことだろうし、実際に、なにかの目的に向かって、みな、それぞれの方法、それぞれの考えでもって今も邁進している。し、後に、集団の意志も確たるものへと変貌していった。私が言う時期とは、旗揚げの頃のこと。つまり私が立ち上げを主導し、主宰を務めていた時代のことだ。あの頃、我々には見えていないものがたくさんあった。


集まった人間はみな、演劇をやりたいと思っていた。しかしそれ以上に、仲間と集まり、なにか、なんでもいいから面白いことがやりたいと思っていた。面白いことをどれだけの観客に見せたいか。届けたい観客とはどの観客なのか。そもそも我々の言うところの面白いこととはなにで、その実現のためにはどんな力が必要か。この行為はいったいどこに辿り着けば終わるのか。そもそも終わらせる気があるのか。在りもしない永遠というやつに挑もうというのか。全てが漠としたまま、我々は集まった。


集まってからがまさに本番だったはずだ。しかし、心のどこかで集まることが目的になり、集まることに満足してはいなかったか。見知らぬ街でも変わらず演劇をやれる、そのことにたやすく達成感を感じてはいなかったか。言葉は違えど、通り過ぎていった仲間たちが私に残していってくれた言葉も、要はこのことを指摘していたのではなかったかと、時おり考える。振り返れば反省。そんな15年。気づけば15年。そして15年。




旗揚げメンバーの一人、小島聰が、劇団活動に終止符を打ち、2014年末日をもって退団、併せて、役者業も引退いたします。




こう申し上げると、他の劇団員に対して語弊があるかもしれないが、あえて言わせていただくなら、旗揚げメンバーは、劇団にとってなによりも替えのきかない存在だ。立ち上げて15年も経てばなおさらで、この先、年が重なれば重なるほど、さらに重要な存在になることだろう。なぜなら、その時どきの真実を語ることができるのは、その時どきに居合わせた張本人だけだからだ。居合わせた時代がほんの少しみんなより長いだけ、では済まされないのだ、本人の望むと望まざるとに関わらず。もちろん私も含めて。


そして、小島聰はおそらく、今残っているどの劇団員よりも、劇団に関する真実を知っていた男だ。それはつまり、劇団員のプライベートうんぬんという話ではなく、劇団が劇団であるために重ねてきた迷走や暴走、試行錯誤の端々に常に関わってきた、という意味でだ。彼がいなければ、ここにブルドッキングヘッドロックは無い。私が主宰であった時も、西山に代が変わった後も、彼が傍にいたことで成り立たったことは数しれない。長年関わってくださっているスタッフ陣の、小島引退に対する反応を目の当たりにすれば、それはより明白だ。Mr.ブルドッキングヘッドロックがいるとするならば、実は私でも現主宰の西山でもない、彼、小島聰のことだったと私は断言する。


しかしこのMr.。野球なら、あの長嶋茂雄氏を指す言葉だ。小島がブルドッキングヘッドロックのMr.だったのだとすれば、今後のブルドッキングヘッドロックはいったいどうなってしまうのか。誰もがその不安に駆られることだろう。巨人軍は永久に不滅でぇす!と言って球場を去った氏は、後に指導者として戦いの場に戻ってきはしたものの、果たして、選手として溌剌と動き回っていたあの時代に匹敵するだけ、観客を夢中にさせることができただろうか。


後の選手たちは、氏を越えてその存在を証明できただろうか。


氏が現役の頃とじゃあ時代が違う、と言えばそこまでだが、しかし、いつだってそこに氏の影は在る。Mr.は、あまりにも大きい。


小島と長嶋氏を並べて語るお遊びにも早晩限界があるだろうとお気づきのことだろうが、いや、私も気づいてはいるのだが、もう少しだけお付き合いいただこう。そう、小島が引退するということは、かつてMr.が現役を引退したのと同じくらい、我々にとっては、あくまで我々にとってはですが、歴史(劇団の)に残る大きな出来事なのだ。この後も劇団が永久に不滅だったとしても。


小島を語るにあたってこういう切り口になることは、小島がどのように劇団と、或いは私と関わってきたかを端的に表している。小島こそ、誰よりも“劇団”とともに暮らしてきた男であり、私に怒られ弄られ続けてきた男だからだ。


小島は、ブルドッキングヘッドロック旗揚げ公演で、主演を務めている。彼が主演であることに、他のメンバーも当時、違和感はなかったはずだ。彼には、同じ旗揚げメンバーの寺井や篠原がなぜかどこかに置いてきてしまった、言わば、溌剌とした陽の光のような輝きがあった。


それに加え、彼は、舞台監督という役職も兼務していた。舞台監督とは舞台上の責任者だ。例えば、劇場が火事になった時、劇場スタッフとともに観客を無事誘導するような責務も負う。それを、主演をこなしながらやろうとした、というか、やらせようとしたのだから、ほら、ね、先のように我々は大甘なのだが、なにしろだ、なにしろ彼は兼務した。陽の光を放ちながら、陰の中心にもいたわけだ。稽古場では、台詞覚えもそこそこに音響、照明、舞台美術の各スタッフと連絡を取りあい、劇場に入ったら入ったで、演技プランもそこそこに音響、照明、舞台美術の各スタッフに怒られ、責められ、ボロボロになっていた。あげく本番が始まれば、どこがうまくいってない、どこがつまらないと、私に怒られ、罵られ、正解なんてもうわからないとなるまで返し稽古をさせられた。本当によくやったもんだと思う。彼の東京暮らしは、それらを全て背負うところから始まっている。


「青空と複雑」の初演時には、現在もお付き合いいただいている照明家、斉藤真一郎氏にボロクソ言われ、仕込み中の袖裏で泣いていたと、先に辞めたとある劇団員が言っていたこともある。その時も彼は主演だった。そして、あろうことか、仕込み中に声を枯らし、初日にして声がガッスガスという失態を演じた。登場後の第一声、「ずいぶん晴れてるんだなあ!」がガッスガスだったことに、私自身覚悟はしていても、どうしても膝から力が抜けそうになったことを、今も昨日のことのように覚えている。


その後、我々には第6回公演まで舞台監督がつかず、およそ3年間、小島は舞台監督をこなしながら、役者としても中心人物を演じ続けた。となれば、スタッフ陣が、他のどのメンバーよりも小島と信頼関係を築いていったことは、ごくごく自然なことだった。


彼は今日に至るまで、時には事情があって出演を辞退することはあっても、常に劇団とスタッフ陣を繋ぎ続けてきた。このことが、どれほど我々を生かしてくれたか。下手くそな本に意味を与えてくださり、下手くそな演出に粋な効果を与えてくださり、下手くそな演技にさも深みがあるかのような空気を足してくださったスタッフ陣のことを、演出の私よりも誰よりも知り、ここに留めてくれていたのは、誰でもない、小島だった。


一方で、第6回の「見知らぬ骨1、2個」を最後に、小島はしばらく主演から遠ざかる。「骨」の次に主演を張るのは3年後の第11回公演「亀の気配」。永井とのダブル主演で、浮気で地獄を見る無職の男を演じた。次に主演と言えるのは4年後の第19回公演「Do!太宰」。非常事態にあってなお演劇を辞めない演劇青年の役だった。そして最後がさらに4年後、今年の第25回公演「青空と複雑(再演)」。 芸術家になる夢を叶えるために街に出て、迷走し、夢破れる男の役を演じ、まるで本人であるかのように劇中ラスト、劇場を飛び出し、街へと消えていった。


と書いていて、配役した私自身驚いた。あて書きっぷりにじゃない。それだと、小島は浮気で地獄を見たことになるが、見たことだってあるかもしれないが、いや知らないが、そこじゃない。劇団の25回と、いくつかの番外、プロデュース公演を通じて、彼は、いやさMr.は、意外にも明確に主演と呼べる役を、たった6回しか務めていなかったということにだ。


おいおい、いいのか僕らのMr.。巨人のMr.はずいぶんと4番を張っていたぞ!…そう野次っても後の祭り。彼はもう引退する。残念だが、7回目はもう、ない。そう配役したのは私なんだが。


そしてこの驚きが、私の筆をふと止めた。小島とはいったいなんだったのか。旗揚げ公演「思考の大回転」で主演を務め、引退作「青空と複雑(再演)」で主演を務めるという、まさにMr.的配役をゲットしておきながら、その途中では、どこでなにをしていたというのか。


答えは先と重複する。彼は劇団の運営に従事していた。もちろん様々な役をこなしながら。「女々しくてシリーズ」と幾つかの公演を出演者として休んだ以外、とにかく彼は劇団の中枢にいて、運営を担っていた。


劇団とは、演劇を作り、観客の前に届けるための集団だ。やっかいなのは、作るだけじゃダメだということで、少しでも多くの観客に届ける工夫を、どうせなら作って満足しちゃいたい連中であるにも関わらず、その工夫をしなければならず、が故に、けつまずいたり、空中分解するところも数多ある。


この、しなければならない部分の一翼を担い続けたのが小島だった。先に言った劇団の真実とは、こにあると言っていい。作品を作るだけなら、プロデュース公演だってよかった。それを劇団公演たらしめるには、いくつもの課題があり、その多くが演劇を志すものにとってそれは不得手な部分で、そこを乗り越えようとするとき、いやというほど“人間”が出てしまう。嫌わなくていい人を嫌い、疑わなくていい人を疑うことだって無いわけではない。そんな場所にずっと彼はいた。


私は役者小島に対して比較的罵詈雑言を浴びせ続けた方だが、基本的に小島を悪く言う劇団員は一人もいない。むしろ、最も劇団員に愛されていた劇団員と言えるだろう。なぜか。私は今、はっきりと納得した。小島とは、役者であると同時に、いや、むしろ役者である以前に、誰よりも劇団員であったのだ。


主宰だった私が、あるいは作演出の私が罵詈雑言を浴びせることができたのは、彼が、誰よりも、誰よりも劇団員だったからだ。


本人は嫌がるだろうが、後に語る機会は二度と無いので書かせていただくが、そもそも彼は別の作家と別の劇団を立ち上げるはずだった。それが、ちょっとしたボタンの掛け違いで頓挫したことで、私と15年をともにする羽目になった。ここからして妙な男だ。普通、役者を志す者が、劇団の立ち上げにまで話しが至る作家に出会ったのだから、なにがあろうともその作家について行けば良かったはずだ。なのに、彼は、話しが違うとして、その作家と袂を分かった。


乱暴に憶測を言う。彼は、作品よりも作家よりも、どんな場所でどんな集団を作るかの方をイメージしていたはずだ。


だから、互いの思惑がずれた時、彼は作家の意志よりも、自分を優先した。そして、抱いていたイメージを、結果的にブルドッキングヘッドロックに反映させた。ブルドッキングヘッドロックは、目的もまだ見つかっていないのに、劇団になり得た。小島がいてくれたことで。


もちろん作品のことも多いに語り合った。しかし、今、思い返して出て来る小島は、いつだって劇団のことを話している小島だ。そこには、いつだって溌剌とした力があった。時に、本人もよくわからなくなっていることもあったようだが、そんな時でも、妙な溌剌さだけは枯れることがなく、だからちょっとこいつの話を聞いてみようという気にさせた。


妙な話だ。目的も無く走り出したように見えたその集団には、もしかすると、その集団作りこそが目的であった男がいたのかもしれないのだ。どうりでやってこられたわけだ。彼の中で、手段と目的は一度もすり替わっていなかったのかもしれない。私や西山が主宰でいられたのは、彼の力によるものではなかったか。いやはや、旗揚げの頃を、我々はと言って反省してみせた私だが、ブレていたのはこっちだけだったのかもしれない。お見それした。彼は、のらりくらりと、いつだって真っすぐだったのだ。






小島聰は、Mr.ブルドッキングヘッドロックである。






と、ここまで書いてひと息つく。


…いやはや、どうだい、このはったりまみれの駄文。だがしかし、これも同じだけの時を歩んだ旗揚げメンバーだからこそ言える、冗談半分の真実だ。こういう、語る側のテキトウなアレで、氏もMr.になったんだきっと。…昔、ブルドッキングヘッドロックには小島聰という男がいてね、骨と皮だけできているのに、ずいぶんと張りのある演技で、観客を沸かせたり沸かせなかったりしたものさ。とね。


再びMr.の文字が出てきたところで、大きく話を戻そう。Mr.のいない後の世界の話だ。


Mr.が作った劇団から、Mr.がいなくなる。そんなことってあるのか。あるのだ。事実、今、我々の前にそれがある。いやがおうにも時代は変わる。いや、変えなければならない。当然、残った我々の手によって。


ただ、これも必然か、と思うのは、この数年、劇団自体がその集団性を少しずつ変様させていたということだ。うまく言えないが、確かに変りつつあった。その変様の先に、劇団を形作った男の退団、引退が待っていたということ。全ては流れの中にあるということか。


来年には新たなMr.が現れるのだろうか。あるいは、これまでとは全く異なる集団に生まれ変わるのだろうか。今はなにもわからない。歴史の大転換点にいるということだけしかわからない。今、我々は、主宰交代に匹敵する、或いはそれ以上の出来事の最中にいるのだ。


しかと受け止めよう。小島が作り、支え続けてくれた劇団を。そして、彼のこの先の不在を。その先に、いやがおうにも未来がある。


この文章に、馬場が退団したときのような湿り気が無いのは、あるいは関家や伊藤、久野らが退団した時のような落ち着きとも違うのは、やはり小島が誰よりも“劇団”に大きく作用していたからだろう。今までなら、「大丈夫。これからもオレたちは大丈夫」と言えた私だ。しかし今、それはおいそれとは言えない。自然と覚悟のようなものが生まれて来る。泣いてる場合でも、笑ってる場合でもない。そう思う。


小島くんは、劇団という集まりを離れ、家族という新たな集まりに専念する。いつでも彼の目の前にあるのは「人」なのだ。だから彼は愛された。これからも愛されるに違いない。どうか、どうかお幸せに。


まあ、役者としては、「青空と複雑(再演)」で初演とまったく同じように声を枯らし、日に日に、面白く言えてた台詞が面白く言えなくなっていったので、ある意味、なんだ、これはもう、レフェリーストップのような?なんとも言えない侘しさを私に味わわせてくれたわけだから、いいさ。じゅうぶんだ。やってほしい役もまだまだあったし、再演したい作品もあったが、いいよ。うん、よくやってくれた。本当にいろいろ言わせてもらってありがとう。と思っている。「バットとボール編」と「役に立たないオマエ」がオリジナルメンバーでできないことについては、まったくもってどうにかしてもらいたい気分だが、まあいい。うん、いいよ、いいいい。鳴らしてくれゴングを。あ、自分で鳴らしたか。そうか。


えー、新年から、新宿で珈琲店に勤めるといいます。珈琲貴族。この劇団には不思議な風習が残っていて、劇団員には私がキャッチコピーをつけることになっています。「燃える闘魂」みたいに。そこで私が小島くんにつけたキャッチコピーが「コーヒー貴族」でした。まさかそれがそのまま彼の勤め先になろうとは。あるんですよね、こういう奇妙な予言?事実、篠原は今も夜更かしをしていますし、永井はひねくれています。寺井はデジタルですし、西山はひらめきます。だから、小島のことを「どざえもん」とかにしてなくて、ほんっとによかったです。どうぞ新宿にお立ち寄りの際は珈琲貴族へ。


劇団ってなんだっけ?と思った時に、私も彼の店を訪れてみようと思います。きっとたいしたことも言わず、ニコニコだかニヤニヤだかしていることでしょうが、そこにこそ、劇団員小島聡の、いやさ、人間小島聡の、真髄ってやつが、あるのです。


長くなりました。ご清聴ありがとうございました。そして、




一緒に走り出してくれてありがとう。おつかれさまでした。

2014年12月27日 01:45

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