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劇団A.P.T最終公演に寄せて

母校、広島大学の演劇サークル、劇団A.P.T(アプトと呼ぶが、あんぽんたんと呼ぶ者もいる)が最終公演を迎え、無事終演したという。

私が在籍していたのは1993年から1995年。およそ20年前。代表なんて肩書きを任されていたこともある。

サークルを引退した後、進路を決められずフラフラしていた私は、A.P.Tの同期や先輩方に声をかけ、ちょっとした公演をうってみたり、あるいは、さほどの覚悟もないまま東京へオーディションを受けに行ってみたりして、決断の時期を曖昧に濁していた。その間も、A.P.Tの後輩たちは、定期的に公演をうち、大学の外へも活動の幅を広げ、おおいに学生生活を謳歌していた。そのころには、いつかこの集団も無くなるだろう、なんて少しも思わなかった。

A.P.Tに限った話ではないだろうが、サークルの構成員は基本的に4年にあがる時点で引退となる。就職やらなんやらで忙しくなるからだろう。ところが、進路を決めかねていた私は、当然ながら忙しくなることもなく、その後の日々を振り返れば、引退する必要なんてちっともなかったんじゃないかと思うくらいの演劇生活を送っていた。しかし、そのまま残るなんて選択肢は当時の我々には思いつきもしなかったことなので、すんなりと慣例通り引退し、近からず遠からずの位置から、ついこの間までいた場所を眺めていた。広島を離れるまでの話だ。

それから今日まで、一度もA.P.Tの公演を拝見することはなかった。東京で居場所を見つけ始めた私は、それを少しでも確かなものにするために必死で、かつていた場所を振り返る余裕など無かったのだ。それは、A.P.Tに限った話ではなく、生まれ育った愛媛の実家についても同じなのだが、一緒にすることでもないのかもしれない。なにしろ、なににつけても前方にしか道はなかったのだ。

何年か前、ブルドッキングヘッドロックが東京で開催したワークショップに、劇団A.P.Tの卒業生だという俳優さんが参加してくださったことがあった。私の在籍した時とは時代が異なるため、直接面識は無かったが、ワークショップ終了後に先方からそのことを告白されると、面映ゆい反面、また別の感情が湧くもので、その方の先々の活躍を願わずにはいられなかった。残念ながら、その後、直接ご一緒できる機会は、今のところ実現できていない。

実を言えば、ブルドッキングヘッドロックの永井幸子、寺井義貴も劇団A.P.TのOBOGだ。だから、私のところで突然ぷつりと縁が切れたわけではないはずなのだが、永井も寺井も私と同様、前を向くしかなかったのだろう、その後のA.P.Tとなにかしらの関係を繋いでいるようには見られなかった。

というわけで、私の周りからすっかり劇団A.P.Tの気配は無くなってしまった。

それから10年以上の時が経ち、私はいつしか、「1995年」をテーマに創作を重ねたいと思うようになっていた。このことについてはまた別の側面からも語る必要があるので、ここに深くは書かないが、なにしろ今から数年前、頭の中にフワリとそのことが浮かんで来た。2011年、3月11日の影響もあるのかもしれない。

そしてそのことを、初めて公に、正確にはツイッターで個人的な呟きとして外に出したのが、今年、2014年の秋だ。まだなにも決まっていない。こんなことができたらというプランも無い。ただ、「1995年」からなにかを想起できるんではないかという、勘のようなものが働いた、そのことを呟いてみたのだ。

少し話がそれるが、私個人の「1995年」を振り返ってみると、そこには、劇団A.P.Tの存在、演劇の存在が欠かせない。

劇団としては4つの公演をうった。1995年当時、通常は春、夏、冬の3回うつのが慣例だった。今思えば3回でも多いくらいだ。4回はかなりの負担だ。それでも敢行した。後輩たちの強い思いが我々を動かしたというのが正直なところで、私はその真ん中だか端っこだかで、ワーワーと声を張り上げていただけだった気もする。

それとは別で、本当に本当にささやかなことだが、初めて「脚本」というものを書いた年でもあった。秋の大学祭の催し物の一つとして用意した。私なりに確信犯的な仕掛けを施した本だった。物議を醸したい、その一心だったようにも思う。誰も表立って褒めてはくれなかったように記憶しているが、その時の興奮と喜びははっきりと自分の中にあり、その不確かな感覚を求めて、今も言葉を、あるいは会話をひねり出そうとしているのかもしれない。と思うくらい、小さな小さな私的エポックメイキングだった。

それから20年経ち、今、やはり私は、演劇に身をやつし、物書きとして七転八倒している。私の20年とは一体なんだったのか、考えてみたくもなるが、気が遠くなるだけなので、今はなるべく考えまい。

そして今年の秋、呟きと時を同じくして劇団A.P.T最終公演の報せが舞い込んだ。

なにかとなにかを関連づけ、意味付けるのは人の脳が生み出す他愛ない小細工のようにも思う。小細工だとは思うのだが、それでもなにかが繋がっているように思えてならない、奇妙なタイミングの相似だった。

「1995年」のことはいつ呟いても良かったはずだ。3年前でも別によかったし、タイトルを「1995」にしようと考えたのは、いつだったか思い出せないくらい、かつてのことだ。それをあのタイミングでたまたま呟いた。

A.P.Tの後輩から最終公演についての連絡をもらったことも、少々異なもので、昨年から私は広島で、劇作家講座なるもので僭越ながら講師を名乗らせていただいているのだが、そこに参加していたのが、私に連絡をくれた後輩だった。その後輩はそれまでにも、広島にナイロン100℃の公演で訪れれば会える程度に交流はあったのだが、昨年、突如私は講師、彼女は受講生(あ、後輩は女性でした)という間柄になり、かつてはそれほど交わさなかったであろう「演劇」の話、「創作」の話を交わしたのだ。あの時の交流も、ひいては広島への回帰のようなものも(実際には、その後の見知らぬ道への出発だと認識しているのだが)、なにかの布石のように思えてならない。

来年、2015年で私は40歳を迎える。

日本人男性の平均寿命を考えれば、そろそろ折り返しだ。人生の最初の10年と最後の10年は、人としてたいして使い物にならないだろうことを考えると、折り返しと言ったってきっかり半分というわけでもない。

そう思うと、今できることは今やるしかないと言う衝動に当然駆られる。私にとって、2015年は、1995年以来の一つの節目になるのではないかという予感が漂う。いや、別にたいしたことは起きないさ。妙な期待はしないでくれ、みんなも自分も。内なる部分での話です。1995年が私にとってそうであったように。

失礼、少しのつもりがずいぶん話が逸れた。劇団A.P.T最終公演に寄せて、そのことを書くつもりだった。

先の後輩から、最終公演を観に行きませんか、という誘いをいただいた。無理をすれば行けないことはなかった。まあ、無理の程度にもいろいろあるが。

迷った末に、私は行かない方を選んだ。

後輩の活動を見届ける。演劇と出会わせてくれた場所へ感謝の思いを届ける。それらも大事だし、実際、強くそうしたかった。しかし、やはり私は前を見たい。「1995年」をモチーフにするということは、あの頃を懐古することではないと強く自分に言い聞かせたい。あの頃を媒介にして、今現在我々が抱える傷やきらめきを、あるいはほんのちょっと先へ踏み出すためのなにかを、見つけたいという企みであり、目論見であるべきなのだ。今、あの場所を訪れ、覗き見することは、私の中に妙な感傷を呼び起こし、その企みに甘い蜜を注ぐようなものではないか。誰も興味を持たない私の回想録に付き合わせるような、そんな危うい墓穴を掘りかねない。そう考えた。

それに、最終公演と決めた方々のことを私はまったく知らない。同じ劇団にいても、時間という隔たりが、私と彼らを別の世界の人にしてしまった。別の世界の人が決断したことだ。応援はするし、思いは馳せるが、それはさて置き、こちらはこちらでこちらの決断と行動を繰り返すだけだ。時は刻一刻と進むのだから。

わざわざ難しい言い方をしただけじゃないかと仰る向きもあるだろう。そう、要は時間の使い道の話だ。というわけで、遠く東京の空から、公演の成功だけを祈念させていただいた。最終公演の場合、なにをもって成功なのか、最終公演を経験していないのでわからないのだが。赤字になって、誰がその経費持つんだよ、なんてことで揉めてなければ御の字か。

いや、きっと成功したことだろう。彼らが彼らの時間の中で出した答えがそこにあったはずだ。祝 最終公演!!

さて、ここまで私が居た後の劇団A.P.Tのことを考えて来たが、そらそうだ、最終公演に寄せてだもの、だがしかし、今この手を置く前に思うのは、私をこの世界に誘い込み、優しかったり、厳しかったり、きっと呆れたりしながらそっと見守ってくださった先輩方と、入団当時たった一人いた同級生の男役者のことだ。初めて稽古場に行った日。あの場所にあの方々とあの男がいなければ、私は今ここにこうして居ない。かけがえのない時間であったと思う。私が演劇を、集団でなにかを創作することの強さを信じているのは、あの時間があったからだ。ひとまずありがとうございます。おかげさまでずいぶん面白い20年を過ごせて参りました。

それぞれの時間がある。或いはあった。ということか。

広島大学の学生会館という場所で奇しくも交わったかもしれない私と現在の劇団A.P.Tの時間は、私が思いを馳せるにとどまったことで、今このタイミングで交わることはなかった。すまない、薄情な先輩で。ただ、いつかどこかで、思いもよらぬ奇妙な邂逅があるかもしれないと、不確かな期待は消さずにとっておく。なにしろ、同じ年頃に同じ場所で同じ喜びを知った、似た者同士のはずなのだから。







おつかれさまでした。さらば劇団A.P.T。関わった全ての人たちの胸の中で、そっと眠れ。







…とか言って、来年、名前を「演劇集団A.P.T」に変えて再始動!なんて言い出したらどうしてくれようか。

※コメント書き込めるように設定し直しました。

2014年12月 2日 23:47

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