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「ソ」の謎と芝居考と

 気がつきゃ数日経っている。早いよ。

 なにをやっていたかといえば、えっと、前回公演の反省会でしょ、自主映画「苺の日」の撮影でしょ、シベリア少女鉄道の芝居を三鷹に観に行ったでしょ、サックスの練習したでしょ、あと、なんかしたでしょ、なんかいろいろしてました。あと気分転換にファミコン引っ張り出してツインビーとかやりました。なつかスゥィート。

 暑くていい。しかもずいぶんからっとした暑さ。やる気にもなる。

 サックスの練習をしているのだがどうもオクターブ上の「ソ」がだめだ。「ソ」の音が悪い。割れるんだよねえ。なんだろう。「ラ」と「シ」はいい音。「ソ」に降りて来ると音が変わる。で、そうなってくると「ファ」辺りも悪くなってくるから困ったものである。で、もう一度気を取り直して「シ」から「ラ」「ソ」と降りていくとなんだよ今度はちゃんと出るじゃねえかってわけで、これってやっぱりオレの吹き方の問題?つかアルトサックスなんですけど、高音と低音では、安定した音を出すのに難易度の差とかある?高音の方がむずかしめとか。なんにせよ「ソ」が気になるんですけどね。下唇の内側が、歯が当たってしびれてなんかいかりやの長さんにでもなった気分。それもまた心地よし。よかねえか。

 ♯、♭はまだ憶えられず。まずはきれいに音を出したい。いい音である事に感覚を研ぎ澄ましていこう。これはもう役者的作業だね。いい音で喋る事。やはりそこに感覚を研ぎ澄ます。

 そしてもちろん気持ち。ハートとか言ったりする人もいたりいなかったりだ。語尾を変えてみました。

 「骨」の稽古ではとにかく「気持ち」について執拗に執拗にしっつよーーーにダメを出しました。それはもうなんて言うの、世界を作るうえで必要不可欠な、世界の住人、登場人物のリアリティ、を形成する為で、世界を作ろうとする作業とはそういう意味でとにかくこまかーーーーいディテールの積み重ねだ。と言えるのではないかと。

 そういう意味で昨日観に行った「シベ少」は面白いと思うものの、面白いという事のわかりやすさには敬服しまくりなものの、でも、私の観たいものはまた少し違うものだと思った公演でした。それをわからせていただけたのでいい体験だったです。

 徹底的に物語的な前振りをしておきながら、後半怒涛の「仕掛け」で物語を捨てて笑いに持っていくその手法、そしてそれ自体を目的にしている点は確かにどことも違う特色で、「シベ少」が今伸びているのは、制作的にも売りがはっきりしているし、リピーターも生まれやすいからなんだと思い、その物語の放棄の仕方には学ぶものが多くてほんと頭いいなあと思っちゃった私であります。あと、そういう「仕掛け」重視な辺りが芝居なめてる感じがして、それがいい。いい具合に楽。

 ただ、やっぱり私が作りたいのは辛くともしんどくとも、もっと確固たる「世界」なようで、方法論的面白さは、んー、正直まだまだ自分自身弱い所があることが「シベ少」観て、いやっつうほどわかったんですけど、でもなんだろうそれよりもなによりも世界の面白さ。それはそのまま登場人物の魅力。作品世界の住人の魅力。役者の魅力。演技の面白さ。っつう意味ではもうこれ今時どうなんだってくらいど真ん中ってことで、今やど真ん中過ぎてマイナーな面白さなんじゃないかって勢いですよ。映画産業もね、芝居よりも、テクニカルな何かが主役になっちゃたりするご時世ですし。

 でもそこで勝負したい。だって私はうちの役者の事、とっても面白いと思っておりますので。「仕掛け」の為の駒ではない。生きた人として舞台の上に現われ、観る人々にいろんな何かを生み与えていく。もう、なによりもひとぢから。そこをもっと突き詰めよっかなあと考えた昨日今日明日なのであります。

 それにしても「ソ」がなあ。

2003年9月16日 03:07

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