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書くことから始めるのだ

およそ一年、間を空けた。


書くことを生業とさせていただいたことで、ここに書き殴る必要がなくなったから。そう思っていた。


しかしここ最近、書くことを生業にしたことで、書き殴れなくなったことがある、と思うようになった。


かつて、誰かに届け!と、誰も読んでいないのに誰かが読んでいるかのような文体でもって綴り始めたこの場所に、今、ふらっと戻ってきたのは、いろいろ巡って、今またあの時のように、苦しさとか寂しさとか苛立ちとか、そういうのが上手く吐き出せなくなっているからかもしれない。


東京に出てきてから、いや、物心ついた時からずっと、なにかしら苦しいことはあり続け、それはある人から見れば取るに足らないものなのだろうが、私にとってはぼんやりと、あるいはくっきりと苦しみであるわけで、それに対して昨日も今日も明日以降も、ずっと頑張り、挑み続けている毎日だ。


乗り越え続ければいつかきっと!なんてのが幻想だということは、とっくにわかっている。乗り越えた先にあるのは、また別の苦しみだ。人生まさに生き地獄。だからせめて笑ってやろうと知恵を振り絞る道を選んだのだ。そのことに迷いはない。なのに。こうもずっと乗り越え続けて、俺は一体どうしようってんだ、と思う時もなくはない。


人生はバランスだと若い頃からことあるごとに思っている。苦しさから解放されることはない。あがけばあがくだけ、喜びに出会うかわりに苦しみも増える。楽になろうとするなら、別の何かを、あるいは誰かを、苦しめるしかないとすら思う。


時間もそうだ。時間がある時には、あるぶんだけの無駄が生まれる。無い時にも無いなりに生まれる。人はいつだって、大きなバランスの中で右往左往し、天秤の揺れに一喜一憂する。


こんなことをモヤモヤと書き綴るのには、ひとつ、自分の中の変化に慄いているからだろう。


かつて、がむしゃらに戦えた頃の私には、時間があった。それが唯一の希望だった。


それが今は、無い。時間が無い。同じ24時間であるはずなのに、かつてより確実に無いのだ。そしてそれはきっと、この先も少しずつ無くなっていく。が故に、私の中に、かつてのそれとは似て非なる“焦り”があるのだ。


と書いていて、いや、書いたおかげで、少し納得した。時間を少しずつ失っていく代わりに、他のなにかに出会い、手に入れ、我がものとさせていただいているのだな。そうだ、ここにもバランスがあるのだ。私の器におさまる量は変わらないんだきっと。


変化は常に自分の中にあり、それに伴って、戦うべきもの、寄り添うべきもの、向き合うべきものも変化していく。そのことに、自分自身が一番驚いているし、戸惑っているのだ。揺れる天秤の振幅が、増すどころか、時に不規則に暴れまわり、この手を飛び出そうとする様に、自分がまずビビっているのだ。


悔しいね。それを面白がるところに、知恵を使えてないんじゃないか。


知恵は、面白がるところに使おう。毎日がしんどいなら、今はそれが知恵をぶつける一番の相手だ。


ここがこういう想いを書き殴る場所になろうとは。


いいさ。かつて自分が書き殴った文字にハッとさせられることがある。いつかまたハッとするために書き残しておこう。例えば1年前の記事からは、主宰再任の熱が溢れている。今も、その時の言葉通り、精一杯、私にできることであがいている。読んで、そのことを確かめられただけ、1年前の私には、書いた甲斐があった。


書く前より、少しだけ、すでに面白がっている。

2016年1月18日 00:18 | コメント (0)