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ウロウロ考える

 どうもだらしなくてだめだ。睡眠時間が長い。不本意に。なんかなあ。ま、なるようになるんでしょうけども。

 昨晩は普段テニスの現場でお世話になっております、キャスティングの野上さんのお誕生日パーテーでありまして。野上女史はほんと役者を大事にしてくれる素敵なスタッフさんで、みんなみんな彼女のことを慕っているのですが、昨晩もスタッフさんやら声優さんやら大勢集まってて、彼女の人徳のほどを実感いたしましたさ。んで朝まで飲み。そりゃだらしなくもなるわな。

 でも楽しかったからOK!オレが海堂やってんのは彼女のおかげで寿司!(勢いだけ)

 さて、そろそろ9月に向けて台本の執筆に入らねばと思います。しれっと言ってみたけどすごい事言ってんなオレ。大丈夫か?

 もちろんいきなり何かを書き始められるわけもなく、そのためにここ最近このコーナーでもいろいろ考えてますよーみたいな事を書いてきたわけで、だからまだまだ「芯」を探す冒険は続くし、ていうか始めたばかりだし、少しずつやっていきますさ。

 この前、「今」という事について少し書きましたが、それを実際の作品の中にどう取り入れていくのかという事も考えなければならず、それに関してはまだはっきりとした根拠はないものの、例えば今戦争のことがメディアの中心にあるからといって、戦争そのものをテーマに持ってくるようなことはしたくない。そこにあるもっと根本的なところをどう掴むか。見方とも言えます。つまり、戦争は「今」を見るときの大きなファクターではあるものの、それが「今」そのものとは考えられないということ。だから戦争はないな。戦争という事実がある「今」は、もっと様々な事によって語られるはずだ。

 ただ、その方面から考えられる事として、実感というか、なんだろう、危機感ってあるじゃないですか。過去の戦争、例えば湾岸戦争の時より私の中に危機感があり、それは当然ながら北朝鮮のことがあるからで、湾岸戦争の時だっていろいろメディアが不安を煽るようなことを言ってたような気がするけど、例えば経済的なことね、でもそれより今回危機感が強いのは、死という、その空気が今までよりもずっと近くにあるからで、頭で想像するのを越えた、肌で感じる恐怖。だと。で、そのことが不謹慎な言い方になりますが、なんか新鮮。バカな若者みたいだけど。ていうかバカな若者なので。もうすぐおっさんですけど。

 整然と論文的なことを書いているわけではないので、だからなんだと言われたら、なんとなくとしか答えられないんですけど、そこにもなにかヒントがあるかもしれません。

 当事者であるというか、「今」の渦の中に立つこと。

 外から眺める事もできるけども、中に立つ事で生まれる感覚が、少なくとも私にはなにか今までと違う感覚と思われ、中に踏み込んでいく、奥に潜っていく作業がしてみたいという事でしょうか。それは例えるなら、地球をぐるっと飛行機だか衛星だかで見渡して全体の地図を書く事よりも、どこかの深い森の中に迷い込んでいく行為。

 思えば私が書いてきたブルの作品は、まずジャンルの設定から入ったところがあり、それはその時々によってSFだったりファンタジーだったりサスペンスだったりなんかあといろいろあったと思うんですけど、それらは枠組みとして機能してきて、それはブルの幅を広げるのに重要な役割を果たしてきましたが、そのことと、作品にかかわらず毎回私が大事にしたいと思ったこととのつながりはどうだったのだろうか。もっと密接であってもいいのではないか。ていうか密接に。方法としてのジャンル?「テーマ」とかそういうのはいつも考えませんし、そういうのは考えてから書くものではないと思っていますから、毎回当日パンフに「意味は無い」「テーマは無い」「考えるな」と書いてきたわけで、でもじゃあ結局ジャンルそのものがテーマだったという事か。だってそれしかないわけだから。そこが勢いだけの虚ろさということか。

 いや、過去のどの作品においても、もちろんいつだって大事にしたい何かがあって、そのことについて書いたきたつもりではあるのですが、それとジャンルという枠組みのバランスの悪さか。バランス?安易だな。違う。もっとなんていうか、うーん。

 極端な話、ジャンルなんてなんでもいいわけで、芯にあるものがはっきりしていればそれこそSFでもファンタジーでもSFファンタジーでもいいのだからやはりジャンルは方法だ、であるべきということか。断定できないのはまだ根拠が薄いから。もっと探さねば。

 ただ、伝えるための方法は無くてはならないもので、ジャンルが何かを伝えるためのなにか役割の一端を担うなら、やはりジャンルはあったほうがいいんだろう。ただそれは方法なので、ブル全体の、というよりはその時の作品に限ってととらえるのがいいのではないか。ブルを、というか私の作品をジャンルでわけることは出来ない、ということだし、そういうところへ持っていきたい。だから「芯」を一言で表す、みたいな簡単な事は出来ないのかもしれません。一言で表すのも簡単ではありませんが。一言ではいえない複雑さでありたいという事。

 だから戦争ではないのだな。戦争は、これまでの私のとらえ方だとジャンルなのだ。最初にあるのはジャンルではない。

 ただ、方法という事については考えていかなければならいと。思ってます。ブルの打ち出す方法。それがなんなのか、すくなくともジャンルではないという事ですが、ジャンルは方法の一つでサービス。お客さんへの、そして自分たちへの。そうかだから毎回ジャンルを変えるというのは一つの方法ではあるでしょう。一つの方法に縛られないという方法。でもそれよりもうひとつ強い方法。。さらになにか方法。

 「芯」と「方法」。あたりまえに必要なことですが。今改めて。ただ方法について、改めて言葉にしていくのは、そのことに縛られてしまいそうだし、なるべく限定はしていきたくないなと。じゃ、どうすればいいの?

 ここまで考えてきて思ったのは、結局私がなにを思うか、なにを感じるかで、だから「今」というのも私自身の「今」であるところが大きいのかもしれない。だから町に出ようと思う。歩いてみなければ。あと、本、映画、音楽、表現の数々、私は今なにが起きているのか、知らない事のほうが多い。それらが私の中に入ってきたとき、やっと私なりの「今」を描けるのでしょう。そう感じるにいたりました。

 実は次回作について、音楽劇にしたいというのが既にありまして。そこにももっと根拠が欲しいし、厚みが欲しい。音楽劇というのは、まあ、方法ですわな。

 脳みそウロウロさせながら考えてるので、なんだかまとまりなくて読みづらい事と思います。ご勘弁を。オレもまだまとまってないので。むしろさらに混沌としていくのかもしれません。それこそ、深い深い森の奥に迷い込むことなのでしょう。

 来週から「ドント・トラスト・オーバー・30」の稽古が始まります。また少しずつ忙しくなります。おもろい事になるといいけど。そちらの報告もここで。台湾の事、庭球祭の事、ブルの事、稽古の事、なんか書くこといっぱいだな。ほんとに書けるのか?いや、書くさ。書く。慌てずいきます。

 ではまた。

2003年3月23日 22:50

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