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打ち上げで酔えなかった一因について

 「座頭市」を観る。けっこうわかりやすくて面白かったです。わかりやすいって素晴らしい。最後のダンスは微妙だと思うものの、それも意味はあると思い。

 自分の作品は毎回「よくわからない」とアンケートに書かれます。しかたがありません。あえてよくわからないと思われるように書いているのです。なぜかといわれるとすごく説明が難しく、その辺のわかりにくさが座りがいいからってなんだか雑に言ってしまうのもいやなんですけど、なんだろう、私は、どこまでつきつめていっても他者との完全な理解と共感は困難だと思っていて、そのスタンスが私の作品にも反映されてるんだと思います。でも、それでも、ほんのわずかな、あるいは一瞬の、共感できる箇所があれば、そのかすかな喜びに心躍らせたい私もいるのです。そのために作ってるというしかないほどに。それはもう、まとわりつく孤独感との共存と闘争の繰り返しです。だからなんだって話しですが。

 今回「骨」を皆さんにご覧いただいて、そこから学習したことはたくさんあるんですけど、ブルを立ち上げた頃から見ていただいているようなお客さん、あるいは関係者の感想の中で興味を持ったのが、今回の作品を「今までで一番わかりやすい」と言ってくれた方と、「今までで一番難しかった」と言ってくれた方にぱっくり分かれたという所です。

 私は毎回、物語を放棄しよう、イメージを紡げば物語ではないなにかで本は出来上がると思って書いているのですが、でも今回、今までで一番物語にこだわったのかもしれません。物語的カタルシスが生まれるような要素が今までのどの作品よりも多めに含まれていた、と分析します。だって前半の物語がちゃんと伏線ぽく処理されてるからね。こういうことかしら?っていう、まあよく使う言葉ですが「解釈」がしやすい作品だったとは思います。ただ、やはり僕は物語を重要だとは思ってなく、なのに物語的なモノが多分に含まれてしまったために、ある人たちには、今回の作品がわかりにくいとうつったのだと思われます。つまり、僕の、今回の作品に対するスタンスが今までのどの作品よりも曖昧だったと、そういうことだと考えられますというわけです。

 そこに反省と発見を見出します。

 確かに、お客さんにもっと作品の見方そのものをわかりやすく提示する努力をしなければならないと思い、それは例えば大雑把に言えば「物語は重要ではない。この作品には意味もテーマもない」というスタンスで、その作品の「世界観」あるいは僕そのものの「世界観」と言えるでしょう。「意味は無い。ただそこにある」という。僕の見つめ方そのものがより研ぎ澄まされるならば、みんなもきっとその見つめ方でもって作品を見るだろうからその作品をどう面白がればいいのかっていう点において迷う事は少なくなるだろうと考えられます。あったりまえのことだけどね。

 同じ方向から見つめよう。手はつなげなくとも、同じものは見えるはず。それこそやっぱり孤独との共存と闘争ですが。

 そして逆に、それでも集団として活動を継続していくなら、そこには観客の支持が必要なわけで、そのためにできるサービスの一つとして、なんらかのカタルシス、理解と共感の為のこちらからのアプローチを怠ってはいけないということを肝に銘じなければいけない。私はコミュニケーションがとっても下手で、それはきっと相手に何かを伝える努力を自分自身甘くとらえているからだと導き出され、つまり何かを伝えたいなら伝わるだろう行動に出なければ伝わるはずがないという当たり前の、あまりに当たり前の結論にいたるわけです。

 オレはここから見つめているよ。という。

 きっとブルのメンバーは私と同じ角度から作品を見つめようとしてくれているのだと思います。じゃなかったら今回の作品も成立しなかった。そこにこそ最大の感謝。

 私は孤独だが孤独ではない。

 今回の作品を観てくださった方々、それ以前の作品から観てくださってる方々とも、さらに角度の調節をしたいと願います。私と皆さんの角度がさらにはっきりとあわさった時、そこにはより鮮明なブルドッキングヘッドロック的世界が見えるはずです。

 私はまだ甘い。そう思わされるのに充分な経験でした。そして、もっとできる、こんなもんじゃない、と思える公演でもありました。

 みなさんどうもありがとう。こんな調子ですが今後ともどうぞヨロシク。「世界の北野」は遠くとも、負けじと思わねば勝てるはずもない。さ、新たな出発。

2003年9月10日 02:30

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