『役に立たないオマエ』出演者名鑑

喜安浩平

喜安浩平

「一世一代の私」

 凄く長いので心して読んでいただきたい。

 高校時代の話である。私の高校にも体育祭があった。生徒たちを縦割りして4つだか5つだかのチームを作り、競技ごとに得点をつけて最後には合計得点でチーム順位を決めるという、よくあるタイプの学校行事だった。

 その体育祭において、競技以外にも順位をつけられる部門があった。一つは「応援」、もう一つは「装飾」と呼ばれるものだった。「応援」はその名の通り、各チームの応援の質やアイディア、熱量などを競わせ、その順位を決めるというもので、私が高校生の頃はまだビーバップなハイスクールの余韻が残る時代だったので、応援担当には当然のようにビーバップな男子と処女っぽくない女子が多く配置され、いわゆるチームの花形的存在として、体育祭当日のみならず、準備期間の放課後でさえも校内をおおいに賑わしてくれる、まさに憧れの部門だった。

 反面「装飾」は限りなく地味な部門だった。各チームには赤、青、白などの色が取り入れられた名前がつけられていた。「装飾」はそのチーム名になぞらえたイラストを考え、とてもとても巨大な装飾パネルに仕立てるという仕事を担当する部門だった。ただひたすらに絵を描き、前日にそれを飾れば任務は終了。そういう仕事だった。横10メートル、縦5メートルはあったのではないか。落ちれば死ぬような高さでパネルを張る作業したのを覚えている。そう、私は「装飾」部門の責任者だった。

 「装飾」の代表を引き受ける人間はあまりいない、というのが通例だった。我々が3年の時もそれは例外ではなかった。引き受ける者など誰もいなかった。引き受けない連中の理由はこれに尽きた。「自分は美術と無縁だ。」そして、「どうせなら応援に入りたい。」というものだった。

 それはそうだろう。高校3年生の秋ともなれば受験まっただ中。授業から美術は省かれ、誰もが美術を余分なモノと認識する頃だ。そんな、ただでさえ絵を描かない学生たちが、10メートルの絵を描こうなんて思うはずがない。加えて高校生活も残りわずか。どうせだったらモテたい、どうせだったら告られたい、と思うのは若い生き物の自然な思考回路だ。私だってそうだ。無理もない話だ。なのに私は、私のいない所で装飾の代表になっていた。私は美術系の大学を受験するための勉強をしていた。そしてその勉強のために、夏休みの間、現役の高校生でありながら大阪の予備校に通ったりしていた。というわけで私は、夏休み中に開かれた「体育祭役員を決める話し合い」に不参加だった。その場でクラスの誰もが「喜安だろ。」と思ったのは仕方がないことだった。仕方がなかったのだ。

 2学期が始まって代表だと知らされた私は流されるままに流されて、気がつけばなにかよくわからないものの中心にいた。各チームのチームリーダーが仕切ることになっている全校生徒合同のチーム決起集会で、私もリーダー扱いされた。生徒会の人に応援リーダーの人にも伝えて下さいと、なにかの伝達を頼まれ、応援リーダーの所に行ったらまだ何も言ってないのに「んだコラ!!」と言われたりもした。こないだキミの横にいた装飾リーダーなんだけど、とは到底言えず、だけどプライドだけは人一倍あった私なので、その伝達事項を、応援リーダーの頭には到底入らないだろうスピードで伝えてやってヤツの脳みそを停止させてやったりもした。また、どういうつもりで「装飾」などへ配属を希望したのかわからない1年2年の後輩たちを指導したりもした。みーーーんな、引っ込み思案な子だった。教室の隅に3、4人ずつで固まっている姿は得体の知れない動物を想起させた。そして副装飾リーダーになった同じクラスの女子とよく話すようになった。おしゃれな子だった。でも女子受けの悪い子だった。それでもよかった。話しているとうきうきした。あと、考えに考えた原画を「まあまあだ」と言う、同じく美術系志望の男子に殺意を覚えたりもした。まあなんせいろいろあった。

 で、前日。巨大パネルは完成し、男子生徒と業者が一日かけて組んでくれた足場にそのパネルを張りつけた。他のチームも同様の作業をしている。他のチームの絵がチラチラ見えては、あそこには勝っただの、そういう浮かれた話をした。この頃には「装飾」という仕事に誇りが持てるほどになっていた。後輩に告られたりもした。わけもなくドキドキしていた。もしも1位になったら。副装飾リーダーたちと、なんとなく帰りがたい気持ちになって、辺りが暗くなるまで学校に残ったような気がする。最後に、夜露を凌ぐために、黒いビニール袋をつなぎあわせたカバーをかけて作業は終了。我々は、まだまだ盛り上がり続けている「応援」の連中の嬌声を背に、家路についた。

 その夜。街に雨が降った。

 次の日。空は晴れ渡り、全ての生徒が自分の日頃の行いが間違っていなかったと確信して学校へ集まった。私も学校へ向かった。学校が近づいてくる。グランドに、普段は見えない巨大なパネルがいくつも屹立している。朝日に照らし出されたその光景は、ひどく美化されて、神々しくさえ見えた。私の気持ちは昂った。そして気がついた。

 うちのチームのだけ黒いビニール袋がかかってない。

 「え・・・?」嫌な予感がした。自転車をこぐ足が自然と速くなる。学校についた。すぐにグランドへ向かった。わずかな人だかりが出来ていた。うちのチームのパネルだけが、昨日の風雨に堪えられずひっぺがされていた。うちのチームだけが。太ったヤツも、痩せほそったヤツも、眼鏡のヤツも、みんなが呆然としていた。副装飾リーダーが泣いていた。涙が流れていたかどうかは確認できなかった。そもそも装飾パネルは3枚重ねになっていて、応援タイムのたびにパネルをはがし、次の絵がお目見えする、というシステムになっていた。今我々が見ているのは2枚目のパネルだった。一枚目の絵は風にはがされて、濡れた地面に落ちてぐっーーーたりしていた。

 台無し。

 体中が熱くなった。「大丈夫。」誰にともなくそう言った。周りの装飾係にわずかな指示を出すと、体操服に着替えるために教室へと猛ダッシュした。途中、担任の先生とすれ違った。火がついていた私は、なぜかその担任に向かって親指を立てた。「大丈夫。」そう言いたかったのだ。今思えば担任はその時点でパネルの事件を知らなかったはずだ。その証拠に、あの時の担任の「え?」っという顔が今でもはっきりと思い出せて胸が締めつけられる。

 結局、一枚目をなんとか傷つけないように回収。体育祭開幕の時点では、そのまま2枚目のパネルを一枚目であるかのように見せておいて、一回目の応援タイムの時に足場の頂上から一枚目の絵を垂らし、きっかけが来たらすぐハラリと落とすという段取りで、なんとなく「応援」が決めた演出だけは守ってみせた。事情を知らない観客には、なんで?って感じだったが、我々としては最高の機転だった。殴られるのだけは絶対いやだったのだ。その後、2枚目から3枚目への転換は予定通りこなし、結果的には何事もなかったかのように体育祭は終わった。順位が発表された。チーム全体は3位。応援は忘れたが、我々の装飾は確か4位だった。結果発表の直前まで、今日の事件を汲み取ってくれた校長たちの粋な計らいで我々が一位になるという、ハリウッド映画並みの妄想をいだいていたが、所詮それは妄想だった。そりゃそうだ。要は「ビニールちゃんとかけとけよ。」という話なのだから。体育祭が終わり、片付けの中、やはり副装飾リーダーは泣いていた。近づいて来て、特になにを言うでもなく泣いていた。偉そうに「よくやったよ。」みたいなことを言った。写真を撮らせてくれと、後輩の女子が数名駆け寄って来た。遠くでは応援リーダーの周りに黒山の人だかりが出来ていた。どう撮られていいのかわからず、気づけば手にペンチと金槌とパイプ椅子を抱えて撮られていた。辺りが暗くなっていく。装飾リーダーの仕事が終わった。私は少しだけ名残惜しくなっていた。

 我々のチームカラーが緑で、チーム名が「緑雲」という、なにを描いていいのかさっぱりわからないチームの割には、そこそこに健闘したんじゃないだろうか。私は私を少しだけ慰めて家に帰った。明けて次の日。私の周りはいつもの景色に戻っていた。周りには男友達ばかり。副装飾リーダーは別の男子と、見たこともない笑顔で親しげに話していた。風が少しだけ、冷たくなり始めていた。

 私が演劇をやめられない理由は、ここにもあるような気がする。