『不確かな怪物』出演者名鑑

喜安浩平

喜安浩平

「私と家族」

 かれこれ15年、私は実家を離れ、家族と離れて暮らしている。

 ずいぶん帰らなかった時期もあったが、最近は帰れるなら帰るようにしている。だが、なにがどうなってそのようにしているのか、自分でもよくわかってはいない。帰省時の墓参りは欠かさない。

 子どもの頃はよく墓参りをした。墓参りをした記憶がほとんどだと言ったら当然言い過ぎだが、それでも当時の子どもとしては、墓参りランク上位だったはずだ。と思いたい。

 墓地ではなぜか落ち着いた気分になった。愛媛県、大きな河川のそば、土手のたもとにある墓地で、今でも我が家の墓はそこにある。井戸から水を汲み上げるのが好きで、土手の急斜面に立ってみせるのが好きだった。お盆の時期、真昼の真夏の石が照り返す墓地が特に好きだった。

 なぜ墓参りする頻度が高かったか。子どもの頃、曾じいさんが亡くなったのが大きな要因だった。もっと幼い頃、私はその人のことをじいさんだと思っていた。当然だ、見るからにじいさんなのだから。だが、その人は実は曾じいさんだった。私にとってじいさんにあたるはずのじいさんは、私が生まれる前に亡くなっていたのだ。その点に始まり、なんせあらゆる意味で曾じいさんはインパクトの強い人だった。それについて話し出すととても長くなるので割愛するが、中でも最後、曾じいさんは、私たち家族の目の前で大往生を遂げることで、最大のインパクトを残してみせた。

 曾じいさんが亡くなる時、私は、人が亡くなる前後の様々な光景を見た。親父の涙はもちろん、新聞を片手に潮の満ち引きの話をするおじさんたちの姿を見て、死と潮の満ち引きが関係するのだということを知ったのもその時だ。その中でも、山場はやはり葬式だった。葬式というやつは、子どもにとってはある意味お祭りだ。まさに映画「お葬式」。ヒマで、火葬場をえんえん走り回ったのを覚えている。業者に頼んだ仕出しが異様にしょっぱいと息巻いていたのは私の母だったか。いやあれは何回忌とか、そういう時だったか。なんせ母はひたすら台所にいた。
 あ、焼けた曾じいさんのお骨の中に、折れた骨をつなぎ止めるために埋められたボルトが残っていたと興奮気味に話す母とおばさんたちの姿ははっきりと覚えている。電気仕掛けの灯籠を見て、子ども心に「電気かよ」と思ったけど、口には出さなかったのもなんだか覚えている。自分がお経を全部覚えていたのも覚えている。曾じいさんが眠る周りが、妙に涼しげだったことも、肌の感覚が覚えている。

 その後も出会ったいくつかの身近な死と、周囲の受け止め方は、どうやら知らない間に私になんらかの影響を与えていたと思われ、現在、私は作品を作るうえでどうにも「死」というものを避けられずにいる。そこにはいつも「死」があるのだ。そして、最近私の作品に頻繁に出てくるのが「家族」。「死」と「家族」。なぜだろう、いっけんつながり得ず、どちらもこのところ縁遠くなっているはずだが。いや、でもそうなんだ。私は子どもの頃から、家族とともに死を見つめてきた。「死」を見る時、そばには家族の姿があり、家族は私に、「死」と、その先にある「生」をずっと教え続けてきてくれたのだ。そう、私にとってこれはごく自然な成り行きなのだ、きっと。・・・とか言ってみるが、まあ誰もが生きていれば死と家族が何らかの形でオプションとしてついてくるわけだから、これは私に限った特別なことではないはずである。誰もが「死」におびえ、あるいは受け入れ、誰もが「家族」を夢に描こうとする。私はそれを見つめていたい。どこかに感情移入などせず、あの時の葬式を見つめた、あの子どもの視線のように自然に、「死」と「家族」を、ただひたすら見つめ続けていたいのだ。

 今年、親父が還暦を迎えた。父の日も母の日も無視する息子だが、還暦を迎えたのだとは思っている。ちゃんと思っている。なんでもアレでしょ?赤いものをアレするんでしょ?ま、うん、また帰ります。