とぐろと僕 喜安浩平
夜、ひと気のない真っ暗な路地。ゆっくりと息を吐くたび、温く澱んだ湯気が白く立ち昇る。僕にはそれが、体内の毒素かなにかが溶け出ているんだと思えた。だから僕は、目の前の女に気づかれないよう慎重に、何度も何度も息を吐き続けてみたんだ。
昼間の陽気は春の訪れを確信させ、僕の住む町にも浮かれた連中が続々現れ始めたのだが、夜はまだまだなかなかどうして驚くほど冷たく、そしてとても静かだ。前を行く会社帰りだろう、ファー付きのコートに身を包んだ若い女の、リズム良くアスファルトを打ちつけるヒールの音だけがやたら大きく聞こえてくるのも、そういう季節だからかもしれない。
僕が駅前に立って三時間ほどしてようやく目星をつけたその女は、コートを着ていてもうっすらと尻の形の良さが伺え、背筋も伸び、はりのある髪を一つにまとめあげて颯爽と歩いている。僕に言わせれば、そんな彼女は肉食獣の風格。ファーはたてがみ。ヒールの音もひどく凶暴。きっとやばい女に違いないんだ。
僕は、右手に握った鈍く光る鉄のモノに力を込めた。心臓の音が漏れるのではないかと思い、息も止めた。そして足早に女に近づく。女は気づかない。もうすぐだ。一撃食らわせたら猛ダッシュ。大丈夫。そのために毎日走りこんできたんじゃないか!
その時だ。女のケータイの着信音が鳴り響く。出る女。
「あ、ヒロコ?あははは!!うん、うん、あはははは!!うそお?マジキモいんですけど!!あはは!!あは、あはははははははは!!!!!」
おかまいなしなんだ。僕はなんだか恐ろしくなって足早にその女を追い抜いたんだ。

