あの夏、僕は疲れ果てていた。
手紙が届いた。
夏の影と書いてナツエと読ませるその女性の手紙には、こう書かれていた。
“拝啓 馬米先生
私は馬米先生の作品の大ファンです。中でも「花まみれ」は最高傑作です。ヒフミが傘もささず、ずぶ濡れで愛犬の散歩をする場面では涙が止まらず、ヒフミが走り去るバスに向かって乳房をあらわにする場面では、思わず息を飲みました。ヒフミが抱くよからぬ妄想は見事に女性の心理をついており、作品に触れるごとに、もしかしてヒフミは私のことなのではないかと疑ってしまうほどです。先生がどれほどの洞察力を持っていらっしゃるのか、或いはどれほどの経験者でいらっしゃるのか、興味が尽きません。
ところで先生にご質問させていただいてもよろしいでしょうか? まいります。血液型は何型ですか? お好きな食べ物はなんですか? お好きな音楽は? お好きな場所は? お好きな季節は? 奥様は? いらっしゃいますか?
お答えいただけたら死んでもいいくらいです(言い過ぎです)。お葉書を同封いたしましたので、よかったらお使い下さい。南方の花の絵葉書です。南の島から届いた気分になるはずです。
ぶしつけなお手紙を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。先生の作品と先生を、心から応援いたしております。どうかお体に気をつけて。お返事お待ちしております。”
僕は馬米先生ではなかった。馬米とは? そして「花まみれ」とは? 小説なのか、映画なのか。ヒフミという登場人物の常軌を逸した行動には戦慄を覚えるが、そんな女と自分をだぶらせるというナツエにはさらに恐ろしいものを感じるんだが大丈夫か? 南の島から届いた気分になるのはあんたの方じゃないか! と言って手紙を投げつけてやりたい気分だが、正体不明じゃ不気味すぎるじゃないか、なんなんだまったく! それどころじゃないんだこっちは。失踪した兄が帰ってきた。姉はなにかを隠している。親父の言動は近ごろ要領を得ない。僕は手一杯なんだ。
数日後、再びナツエから手紙が届いた。ナツエの心躍る様子が文面から伝わってくる。僕は苛立った。だから返事を書くことにした。僕が馬米先生だ。僕は、ひどくニヤついていた。
喜安浩平
